ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2016年7月12日火曜日

人の為と書いて偽りと読む

10日に参議院選挙が終了した。政治に関わることといえば2011年末の民主党の京都大会に出席したこと思い出す。当時民主党の最高顧問であったF氏が「民主党議員の皆さんは政治家として50%の力を注ぎ、政治屋として50%の力を注いで活動をしてください。要するに国民のことを考えた政治家としての活動は50%で、そして次の選挙に勝つための政治屋としての活動を50%行うべきです。」という挨拶をした。そもそも国民の喜びを我が喜びとして100%の力を注いで活動する政治家であれば、多くの国民が支援することになり、結果として真の政治家として育つものではないのか。政治家としての評価は全て国民に委ねるべきであり、自ら自己の地位の保全を目指してはならないものではないのかと考える。「100%全力で政治家として国民の喜びを目的とした活動はしません、そして自己の地位の確保という目標達成のために議員活動の半分の力を注ぐことを目指します」と明言する政治屋という哀しい姿を垣間見たと感じている。政治屋は当たり前のように「国民の為に働きます・・・」というがとてもその言葉が実感できない。なぜなら「人の為と書いて偽りと読む」とは昔から言われている。真の政治家なら「国民の喜び=我が喜びであり、まず第一に国民の喜ぶことに最善の努力をし続け、その結果国民から感謝され信頼される政治家として、自分自身が幸せを実感し喜ぶことができるよう自分の為に働きます」と明言し続けてほしいものである。
何事も人の為ということはない。例えば親が子供に玩具を買い与えたのに子供がそれで遊ばなかったとすると、親は「子供のために買ったのに…」と言うがそれは誤りで、正しくは子供が玩具で遊ぶ姿を見て、買って良かったと喜ぶ自分自身の為に買ったということなのである。

どんな仕事でもお客様の喜びを我が喜びとして100%全力投球で仕事をしている人の背中からは感動が伝わってくる、しかし50%の力で仕事に取り組み、金を儲けることに50%の力を費やしている人の背中からは感動どころか哀れさを感じるのは私だけであろうか。
「素人には政治はできない」と答えた政治屋がいたが、この言葉を発した玄人の政治屋自身が今の日本にしてしまったという事実に未だに気づいていないのは国民として哀しいことである。
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