tag:blogger.com,1999:blog-83722055878412366882024-03-06T08:34:20.437+09:00ジェルトロン開発者ブログ田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comBlogger64125tag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-5286434598436502072020-04-24T14:31:00.000+09:002020-05-20T14:31:57.081+09:00寄り添うとは?沖縄県浦添市の松本哲治市長は、新型コロナウイルスの経済的な被害を受けた市民に寄り添いたいとして、1カ月分の給与の全額を返還することを明らかにした。全国的に見ても新型コロナウイルスの影響で給与を返還する首長は数少ない。歳費返還を検討している浦添市議有志の会から給与カットの提案を受け、松本市長は「政治に身を置く者から身を切る覚悟を示す必要があるとの市議有志の提案に共感し、市民の痛みを共有して新型コロナウイルスにみんなで立ち向かいたい」と考えたとのことである。この松本市長に提案した市議会メンバーも松本市長も市民の痛みを共有するということは、市民と同じ視座に立つということであり、寄り添うということだと思う。 <br /><br />私は人間社会において、人と人が寄り添いあうことができれば、どんな問題も自然法則に基づいた正しい解決がなされると信じている。今、世界中が経済を主とした考えの愚かさと、経済活動だけでは真の幸せは築けないことに気づき始めていると思う。コロナ問題が解決したあかつきには、お金の尺度から心の尺度を基本とした新しい社会ルールによって世界が動き始めるはずである。 <br /><br />今月から新年度が始まり、舞鶴市は新年度から木質バイオマス発電、パーム油を燃料とするバイオマス発電など「持続的で自立的な再生可能エネルギー」を導入し、災害時の非常電源確保、エネルギーの地産地消などの施策を統括するため、生活環境課に「地域エネルギー推進担当課長」を配置、「環境に優しい持続可能なまちづくり」を目指す。と表明している。 <br /><br />先日、日本を代表するベンチャーキャピタルの役員とのミーティングにおいて、パーム油火力発電はバイオマスのカテゴリーに入れないというのがキャピタリストの常識になっており、ベンチャービジネスに値しない事業であるということであった。要するに舞鶴は世界の動きに逆行しているということである。 <br /><br />さらに舞鶴市の生活環境課には三つの係があり、特に注目したい環境政策係では環境基本計画の推進、地球温暖化対策に関する業務や公害対策など、市民の皆さんに快適で住みよい環境を提供するため、廃棄物の処理や環境保全の仕事を中心に取り組んでいます、としている。 <br /><br />喜多地区だけでなく舞鶴市民にとって大きな問題であるパーム油火力発電は健康に良くない匂いという廃棄物と共に騒音を出す。これらの対応のためにも環境政策係があるというのであればパーム油火力発電をつくらなければこの環境政策係も地域エネルギー推進担当課も作る必要はないということになるのではないだろうか。<br /> さらに年間消費量12万トンのパーム油を作るためにインドネシアやマレーシアに於いて舞鶴市の全面積の約80%の自然森林の環境破壊が加速する。舞鶴市の地球温暖化対策とは何を意味しているのだろうか?舞鶴の環境だけではなく我々に関わる世界の環境に目を向ける必要はないということだろうか?非常電源確保の手段はパーム油火力発電じゃなければならないのか?地産地消というのなら大浦地区の方々には申し訳ありませんが石炭火力発電が既にあるのだから、その電気を地消すれば足りるのではないだろうか? <br /><br />先日の市議会でパーム油火力発電についてY議員は「舞鶴の人口の歯止めをかけるためにも、市の勢いをつけていくためにも、このような新しい産業や企業誘致は舞鶴に作り続けていかなくてはならない」と言っています。パーム油火力発電により、地元地価の下落、地元住民の転居による人口減少、騒音・臭気による健康被害と医療費の増加、そして何より福井小学校の校門前の道路に7万7千ボルトの送電線を埋めるという日本では例のない子供の健康を大切に考えない、こんな非人道的な産業を本気で作り続けることを正しいと考えているのでしょうか? <br /><br />どうか多々見市長はじめ、市長に忖度を続ける市議会議員の皆さん、今一度、胸に手を当て、お金の物差しを外し、心の物差しで冷静に考えてみていただきたい。あなた方の行動は浦添市の市長や市議のように舞鶴市民に寄り添っていると心から宣言できますか? <br /><br />市民の皆さん、私はコロナ問題が落ち着いたら全ての舞鶴市民に向けての住民説明会を開催するべきであると考えますが如何でしょうか。<br /> <br /> 田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-46905421837772459332020-03-27T14:29:00.000+09:002020-05-20T14:30:28.058+09:00オリンピック開催中止から描く、本来の地球というステージ3月17日未明のG7の報告で安倍首相は「東京オリンピック・パラリンピック(以下TOPと称する)は完全な形で実現する」と伝えた。これは世界中の選手が公平に参加できるという完全な形が整うまでは開催しないということであると理解している。私は2011年3月11日の東北地震による福島原発事故の発生以降、世論に反して開催地として日本の東京が立候補することに違和感を覚え、無理な開催に対して大きな歪みのエネルギーが発生し、これによって開催に困難が生じるとの思いを発信してきた。そして3年半前のこのコラムの13号ではTOPを辞退すべきであることを、さらには1年前の42号では「復興オリンピックという名の違和感」というタイトルで私見を記させて頂いた。私の考えに批判的なご意見もあると思うがなぜこのように感じるかというと、地球上における日本の現状を「魂の物差し」による判断基準に当てはめれば東北の復興という命の尊さを置き去りにした状態(3月10日現在での避難生活者47,737人)でのTOPの開催に対して宇宙(地球)の大きな見えざる力が作用し、正しい道にリセットするという浄化機能が働くことになり、地球環境の一構成要素に過ぎない人間の力ではコントロールができない状況に陥ると感じたからである。 <br />
<br />
私は今まさに損得の物差し(経済尺度)を外し、魂の物差し(宇宙法則)で現実を直視し、大きな見えざる浄化機能にすべてを委ねるというチャンスを神と称するに値する宇宙法則による力によって世界中に気づきをもたらしてくれていると思うのである。 <br />
<br />
スピリチュアル的な視座に立つと原発問題と新型コロナウイルスを合わせたTOPとの関係は全人類に向けた公平なアッセッション(次元上昇)メッセージであると表現することができると思う。 <br />
<br />
ここでオリンピックを誘致した際のことを思い出していただきたい。「世界一コンパクトな大会」にするとして政府と大会組織委員会が「国の負担分」や「関係予算」として公表してきた額は2880億円だが、費用は大幅に膨らみ、会計検査院が昨年12月4日に公表した集計によると、TOPの関連事業に対する国の支出は、すでに約1兆600億円に達している。国の支出以外にも、東京都が道路整備なども含め約1兆4100億円、さらに組織委員会が約6000億円を支出することになっており、オリンピックの関連支出は3兆円を超す巨額にのぼることが明らかになった。実に当初予算の10倍を超える費用である。予算の10倍を超えるというこんな無茶苦茶な事業を行うには一部の人間が儲かり、欲を満たすための仕組みになっていなければ成せる事業ではないということであり、それは同時にオリンピック精神とはかけ離れたものであるということに気づかねばならない。 <br />
<br />
ここで、近代オリンピックの提唱者であるクーベルタンの言葉として「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」という有名な言葉がある。実はこれはロンドン大会(1908年)中の日曜日に、セントポール大寺院の主教が礼拝のために集まった選手を前に述べた戒めの言葉であり、「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる」と考えていたクーベルタンはこの言葉に感動し、イギリス政府主催の晩餐会でこの言葉を引用して「人生にとって大切なことは成功することではなく努力すること」というスピーチを行い、それ以後オリンピック精神を表現する名言として世界に広まったのである。それにも拘らず、今マスコミの報道は延期・中止は「経済的な大損失」と「出場選手にとって死活問題」というコメントばかりである。 <br />
<br />
今一度クーベルタンの発したオリンピック精神の原点に回帰し、加えて経済尺度を優先したことにより今なお解決していない福島原発事故という教訓を生かし、宇宙法則に則り、負の歪んだエネルギーが積みあがる延期ではなく中止という潔く正しい判断と、それに伴う世界中の人々の勇気ある行動こそが平和で穏やかな本来の地球というステージを子孫に残すことに繋がると私は信じている。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-24283675311012697782020-02-28T14:28:00.000+09:002020-05-20T14:38:49.014+09:00損か得か人間の物差し 嘘かまことか仏様の物差し詩人である相田みつおの名言に「そんかとくか人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」というのがある。私たちは自分の価値観にあった様々な物差しを持っており、その物差しが常に自分以外の他人の視座に立ったもので、その他人の喜びを自分の喜びとするということができれば、そこには損得の物差しは無く、利他の心が実践できているまことの状態であると思う。常にまことの物差しで生きることができれば迷いや争いは激減することと思う。損得の物差しの目盛りは人それぞれの価値観によって大きく異なるが、嘘かまことの物差しには目盛りは無く、すべての人にとって平等であると共に白黒だけでグレーが無く単純明快である。 <br />
<br />
商業界という商道徳を学ぶ場があり、その創始者の倉本長治は「損得より先に善悪を考えよう」という言葉を残しているが意図するところは相田みつおと同じであり、この考え方こそ心を大切にする人間という生き物の原点だと思う。 <br />
<br />
嘘と言えば、もう多くの市民がご存知のことと思うが、多々見市長から私のこのコラムの内容に対して「嘘を書くな!」との圧力がかけられた。このことに対しFMまいづるでも説明させて頂いたが、私のコラムのどこが嘘だとお考えなのか、その部分を書面でご指摘いただければ真摯にその部分を精査し、もし私が嘘を書いていたなら謝罪させて頂きたいと思っている。もし書面の提出がない場合並びに私の記事が嘘であるということが証明されない場合はしかるべき対応をとることが、より良い舞鶴を創る上において最良の方法であると考えるが皆さんは如何お考えだろうか。 <br />
<br />
さらに私のコラムに嘘が無いとなると、昨年ドクターTのひとりごとに対する記者会見で「少数意見を排除するとは書いておらず…」と市長は答弁されているので、この私のコラムの掲載を止めさせる要求やラジオ番組の内容変更の要求はまさに少数意見を排除する行為そのものであると思う。憲法21条には表現の自由を妨害する行為、検閲、事前抑制をしてはならないと明確に謳われている。仮にこの行為が安倍政権によって行われたとすると野党はすぐさま謝罪を求めると共に政権の交代を要求するだろうと思う。舞鶴市においてならこの行為が許されていいのだろうか? <br />
<br />
より良い市長として市政運営に取り組んでいただく上でお願いしたいのは、常に公平公正を基本とした市民ファーストの実践であり、党利党略や地位名誉を含んだ損得の物差しではなく嘘かまことの仏様の物差しを優先して頂きたいということである。 <br />
<br />
現在の舞鶴は医療体制の緊急なる改革、こどもを主人公とした全てのこどもに寄り添う教育の実施、パーム油火力発電に対する冷静な判断、等々多くの市民にとって命に関わる問題を抱えています。だからこそ今、私達市民も自分たちの暮らすまちをより良いものにするため、市政に関心をもって頂き、少数意見が正しく反映されるよう勇気ある行動を続けて頂きたいと切に願っている。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-5905316490709102852020-01-24T14:34:00.000+09:002020-05-20T14:11:22.967+09:00貫いて やり通す1月7日に舞鶴商工会議所の新年互礼会があった。その場で思いもかけない方々から「最近市民新聞読むのが楽しみになってきた、記事内容に賛同です。声には出せないけど応援しています!」「今のまま信念を貫いて色んな力に負けないでやり通してください、期待しています!」とのお声をかけていただいた。ここでふと「貫いてやり通す」とはどういうことなのかと考えてみた。要するに貫通ということであるが、これは山を貫通してトンネルをつくる、というように使われ、完成したあかつきには必ず光が差し、つながり合うことができるということだと思う。そう考えると今の舞鶴は暗闇の中ということになり、希望という光が差していないということになる。多くの市民がこのように実感しておられるからこそ私のような非才な者の文章に光を見出そうとしていただけていると思う。市長及び与党議員のお立場に立つと、「なんと高慢な表現だ!許せない!」ということだろうと思う。<br />
<br />
私にエールを送って頂いた方々は過去現在に亘って、舞鶴のリーダーとして政治や経済をはじめ様々な分野で貢献されている方々も多く存在する。それだけにお立場上、本音を晒すことに抵抗を感じておられるということだと思う。しかし何事にもターニングポイントという大きな変化のチャンスがあり、現状維持ではなくチャンスを活かす行動が必要になる。関わる人々の喜びを基本とした住みよいまちづくりを創造するチャンスが今まさに舞鶴に訪れていると考えるべき時なのではないだろうか。様々な既得権益に振り回されているように見える現状を、お金の尺度から心の尺度へとシフトする改革が今の舞鶴に必要だと多くの市民が気づき、思い続けておられるからこそ、小さな声ではあるが、確実に私にお届けいただいたと感じている。<br />
<br />
ありがたいことだと思うのだが、私のこの寄稿文に対して市民新聞社宛てに激励と賛同のお声以外、一件の反論も届いていないと伺っている。市民新聞は松本社長の理念によって公平で公正な報道基準が順守されており、これは当たり前のことだと思うが、多くの報道関係者ができていない「困難な当たり前」なのであると感じている。私の文章に対しても「反論があればいつでも掲載します」というスタンスを持ち続けて頂いているからこそ、市民の皆さんの本音が徐々に見え始めてきたと判断してもいいと私は思っている。このコラムを今日まで続けさせて頂いているがそろそろ市民の皆さんによって、より良い舞鶴を目指した具体的で目に見える小さな一歩を踏み出していただきたいと思うが、皆さんは時期尚早とお考えだろうか。<br />
<br />
改めて貫通のゴールを考えると次回の市会議員選挙と市長選挙ということになるのかと思うが、望むべきは一日も早く「ドクターTのひとりごと」の不備を市民の視座に立って反省をし、市民の声なき小さな声に寄り添う気持ちを実践して頂くことだと思う。<br />
<br />
1月10日に京都銀行の新春講演会があり、演者の日本電産の永守会長に弊社商品について質問をさせて頂いた。5年前にお渡しした弊社商品の感想を頂くことになっていたのであるがご多忙で頂けていなかったからだ。しかし永守会長のお返事は「あんたが落ち込むからここでは言わん!説明に30分はかかる」ということだった。私は「厳しい意見もいただくことが商品開発に繋がりますからお願いします」と伝えたが、打ち切られてしまった。このままでは納得がいかないので、その後どのようにして感想を聞こうかと思案していた。すると14日に日本電産の秘書室長よりお電話を頂いた。永守会長からの指示で、なぜあの場で感想を伝えられなかったかということの説明と聴講者に対する誤解を与えたことのお詫び的な内容であった。永守会長率いる日本電産グループは世界で14万人以上の従業員を擁し、目覚ましい成長を遂げられている一方、京都学園大学を革新的に変化させ、京都先端科学大学として生まれ変わらせつつあるすごい経営者である。しかし私は永守会長の言動に対し反面教師にさせて頂いているところが多い。反面教師というと悪いことのように受け止められがちだが、根本的に尊敬していなければ反面教師にはなり得ないと思っている。<br />
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なぜここで永守会長の話を書いたかというと、世界の著名な経営者の中でもあれほど自己中心的な言動を発する人はいないと言われる永守会長であるが、この度の一件のように相手を思いやるそれなりの大きな優しい心があるからこそ世界規模の企業になられたのだと思う。多々見市長並びにその関係者にも参考にしていただきたい最適な事例だと考え、永守会長のエピソードをご紹介させて頂いた次第である。<br />
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少しでも早く貫通というゴールにたどり着くには、読者をはじめとする市民おひとりお一人の舞鶴をよくしたいという小さくても力強い具体的な行動を切に願っています。そこで<br />
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2月11日10時半~12時に市民プラザでFMまいづるの私の番組「寝ても眠れない日本人へ」の100回記念公開収録を「より良い舞鶴をめざして!」をテーマに開催します。多々見市長はじめ一人でも多くの市民のご参加をお待ちしています。<br />
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最後になりましたが1月11日に開催いたしました「聖母の小さな学校創立30周年記念事業」にご出席並びにご支援を頂いた皆様に心から感謝申し上げます。<br />
<br />田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-79939051175170767522019-12-20T14:46:00.000+09:002020-05-20T14:27:37.361+09:00舞鶴市民より世界の人々が注視する舞鶴来年から本格的に始まる「パリ協定」を前に小泉進次郎環境相が参加した地球温暖化対策を議論する会議のCOP25で、日本が「化石賞」なるものを受賞したことが話題となっている。「化石賞」(Fossil Award)とは、COPや国連気候変動交渉会議の会期中、温暖化対策に対して積極的でない国に対して皮肉を込めて授与される賞である。この会期中会場周辺では日本に対する抗議デモが行われた。抗議の内容は「化石そのものである石炭を使う火力発電を中止せよ!」という強いメッセージである。要するに世界中の地球温暖化を心配する人々から日本はかなり危険な国として捉えられているということである。 <br /><br />そんな中、石炭火力発電所を有する舞鶴市が誘致活動を進め土地の用途変更も行い、日本最大規模のパーム油火力発電所を舞鶴に建設するという。日本最大ということは世界でも最大規模となり、ここで消費されるパーム油を生産するためにインドネシアやマレーシアでは自然破壊が加速している。試算によると舞鶴のパーム油火力発電所でのパーム油の年間使用量を賄うには舞鶴市の総面積の80%強のアブラヤシ農園が必要になるということである。同時に子どもたちが労働者として働かされているという現状もある。さらにパーム油はSDGsの概念に準じた継続供給が可能な燃料とはいえないという現状を危惧し(公財)世界自然保護基金ジャパンが舞鶴市などに発電所事業計画の見直し等を求める要望書を提出している。 <br /><br />福知山市でも大きな問題となっているパーム油火力発電所の40倍の規模ということは、西舞鶴の街中に臭気と振動音の発生を心配しなければならないと考えるのが妥当であると思う。特に一年のうちで最も多く北北東の風が吹く舞鶴であるから、風下に位置する福井小学校への影響は計り知れないのである。 <br /><br />私はバイオマス発電というのは里山の間伐材や廃棄用の木材を燃料として活用する火力発電だと理解しているので、新たに自然林を伐採開墾してパーム油の原料となるアブラヤシを栽培するということは本来のバイオマスという概念から外れていると思うのである。 <br /><br />「石炭火力発電とパーム油火力発電のまち舞鶴!すぐ隣には高浜原発もございます」というPRをしたらまず舞鶴には住みたくないと世界中の人々は思うだろう。特に地球温暖化阻止と自然環境保護を考える人々にとって舞鶴は環境破壊推進のまちとして記憶されることになると思う。そして悪化の一途をたどる医療と教育環境を重ねてみると舞鶴市の人口が8万人を割り込んだという事実から「住んでよし」の舞鶴ではないことをもっと大きな問題として真摯に捉えなければならないと思う。 <br /><br />先日の市議会で「パーム油火力発電所 建設反対の幟を立てて住民の不安を煽っている者がいる」さらに「市の策定した計画には協力すべし」という発言をした議員がいるがこれは大きな間違いで、私は先日開催された喜多自治区の集会に参加し住民の総意によって幟が立てられていることを確認した。市議会議員はもっと現地に足を運び地元住民の皆さんとしっかりとしたコミュニケーションをもっていただきたい。住民に相談なく策定した建設計画の実行ありきではなく、純粋に地元の人々の少数の意見に耳を傾けなければ正に「ドクターTのひとりごと」に記された市長の姿勢が議会運営そのものとなっていると考えてしまうのは私だけであろうか。 <br /><br />世界中から注視されている今こそ売電ビジネスを是としたお金の尺度を最優先にするのではなく、住人の命と道徳心を基本としたまちづくりを世界に示す好機であると捉え、子供や孫達に素晴らしいまち舞鶴を残さなければならないと思っている。 <br /><br />今回でこの連載も50回という節目となった。今まで以上に気持ちを新たにしっかりと歩を進めたいと思う。幕末の国学者である平田篤胤が「正しきによりて滅ぶる国あれば滅びても良し 断じて滅びず」という言葉を残している。結果を心配することよりも、正しいと思うことを貫いて生きれば必ず良い結果がついてくる、という信念をもって生きる大切さを伝えた言葉だと私は解釈している。正しさの基準は様々であると思うが、「人の幸せを自分の幸せと考える」という生き方には正しさの基準の王道があると思うのである。私自身、日々自戒の念をもって少しでも「正しき」が実践できるよう努力を重ねたい。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-42465626810447889612019-11-29T14:42:00.000+09:002020-05-20T14:11:17.247+09:00世界の最新医療と舞鶴先日、東京ビッグサイトで「がん医療にイノベーションを起こせ!立ち止まるな日本‼」をテーマに『第5回がん撲滅サミット』が開催され、弊社の株主であった原丈人氏が大会会長であったことからお声掛けを頂き、ささやかながらスポンサーとして参加させて頂いた。安倍総理をはじめ閣僚や小池都知事そして世界医師会の横倉会長からも激励のメッセージが伝えられた。<br />
<br />
このサミットの内容は驚きと感動の医療の宝箱のようなものと表現できる。まず驚いたのは、日本のがん治療の最前線にいる13名のゴッドハンド(神のような医療の腕を持つ医師)によって脳・胃・肝臓・膵臓・腎臓・大腸・卵巣・前立腺などのそれぞれの得意分野において、アメリカをはじめとする世界の最新のがん治療の現状が示され、がんはもう克服することのできる病であることが実感できたことである。特にがん細胞のみで増えることができるウイルスを感染させ、そのウイルスでがん細胞のみを破壊するウイルス療法は画期的であり、すべての固形がんの根絶治療につながると期待されているのである。しかしながら現時点での日本の医療保険制度の下ではこれら最新の療法を実施することができないという残念な実情も報告されたが、保険外の自由診療を選択すると高額になるけれども、かなりな確率で治療が期待できるということである。これらの最新療法を保険診療の下で利用できるようになれば、日本人にとってがんは怖い病気ではなくなる日が来るのである。<br />
<br />
ひとりの医師が「大将は患者さんであり、我々医者は参謀です。だから我々医者はどんな場合でも大将である患者さんの意思を尊重し、最善の治療方法が選択できるよう世界中の様々な方法を提案しそれを実践するのです」と発言され、この発言に対しすべての医師が大きく頷かれたのを見た時、これからの日本の医療は患者に寄り添い、力強く進化していくであろうことを強く実感した。<br />
<br />
さらに13名すべての医師から、「現在の日本においてがんを撲滅するには医療制度改革が急務である」との提言がなされ、アメリカでも山中伸弥教授を招請し同じサミットを開催された実績と内閣府本府参与である原氏に対して制度改革を進めるための力強い活躍に大きな期待が寄せられた。閣僚は内閣改造の度に変わるが、原氏は長期的に総理に様々な提言ができるポジションにあることも13名の医師が期待をされる大きな理由であると解釈した。<br />
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さらにこのサミットの素晴らしいところは参加が無料であり、プログラムのメインイベントとして会場の参加者からステージに並んだ13名の医師たちに直接セカンドオピニオンを求めることができるということである。例えば参加者から「現在、肝臓がんで〇〇という状態であり△△の治療を受けているが今後の最新治療方法は何が適切かを教えて欲しい」という質問に対して、ナビゲーターが瞬時に質問者の現状を理解し、その回答者として最適な肝臓・重粒子線・ウイルス療法の専門医を選定し、それぞれが即答するという世界的に見てもこのような取り組みは例のない画期的な内容である。このナビゲーターこそがこのサミットの提唱者であり代表顧問である中見利男氏である。中見氏は日本を代表するジャーナリストであり作家でもある。中見氏が弊社にお越し頂いた折にお聞きしたのであるが、「私は舞鶴というこの地にこころ惹かれ何度も訪れ、この舞鶴を私のこころの故郷であると感じているのです」と表現頂いた。中見氏の著書に「天海の暗号 絶体絶命作戦」というのがあり、そこには細川幽斎が田辺城に隠し持っていた十種神宝にまつわる物語が記されている。私は原氏のご紹介で頂いた中見氏とのご縁には必然的なものを感じており、この必然的なご縁をより大きく育てることにより、10月29日に厚労省により発表された「再編統合を議論すべき424病院」に舞鶴赤十字病院が入ってしまったことを含め、劣悪な現在の舞鶴の医療体制の改革に一市民として一石を投じることを願って努力を重ねたいと考えている。<br />
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舞鶴市の大将は永遠に市民であり、参謀として市長や行政が存在するということを先月のコラムに引き続き、この13名の名医のメッセージをお借りしてお伝えさせて頂きたい。<br />
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<br />田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-48916488367312989902019-10-25T14:43:00.000+09:002020-05-20T14:11:07.927+09:00「怒る」と「叱る」10月15日の「潮騒」の投稿を拝読して、家庭内の道徳教育のしっかりとした素敵なお母さんの優しさに触れた思いがした。それはお母さんとお子さんの会話のやり取りで、お母さんがあくまでも子供を一人の人間として、しっかりと向き合って教育されている様子が目に浮かぶ内容で、小学生の子どもたちの井戸端会議にドクターT(市長)の言動が問題になったことが発端である。子どもとしても市長の言動が市民に誤解を与えたにもかかわらず、謝らないのは間違っているのに、なぜ市長は謝らないのか小学生としては道徳的に考えても理解ができない。大人でも理解できないのだから当然のことであるが、お母さんとしては子どもに説明ができないので、「子どもの手本となる対応として誤解であるなら謝罪をして、子どもが尊敬できる市長でいてください」と結ばれている。<br />
<br />
そのお母さんがお子さんの問いかけに「市長の言動に対して怒っている人がいるみたいよ」と説明されている。ここで、私はいつも心がけていることとして「怒る」と「叱る」を分けて考え表現するようにしている。「怒るは感情」「叱るは愛情」と表現されるが、何が違うのかということである。「怒る」の語源は「起こる」であり、起きると同意の立つということと理解すると腹が立つということに繋がる。腹が立つというのは単なる感情表現であるが、叱るは間違いを正し、改善策を共に考え、示すことによって間違いを解決する行為であると考えている。だから「怒る」にはないが「叱る」には愛情があり、教育という概念も存在すると思う。<br />
<br />
私は今まで市長に対してこの市民新聞を通じ、ほとんどの市民に誤解を招いたことへの反省と謝罪を求め、対話によって共により良い舞鶴を創るための方策を導き出しましょう!と呼びかけている。だから私の言動は「叱る」という行為であると理解しており、腹を立てて文句を言う「怒る」行為で終わりにしたくないと考えている。教育とは永い時間を要するものであるから根気強く叱り続けることが必要であると思うのである。<br />
<br />
ここで異なる視座に立って見ると「怒る」は年齢などの上下関係に関わり無く発する行為であるが「叱る」というのは年上が年下に、先生が生徒に、また上司が部下に対して等、上下関係が存在する中でなされる行為であるとも言われる。NHKの人気番組に「チコちゃんに叱られる」というのがあるが、チコちゃんの質問に対して回答者が間違った答えをすると「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」というフレーズの後に必ず理由の説明と共に正しく理解することのできる解決策が示されていて、まさに「叱られる」ということになるのである。チコちゃんは永遠に5歳だが物知りな先生の立場であり、回答者や視聴者はチコちゃんより年上であるが生徒の立場となるのでより素直に叱られやすくなる構図ができていると思う。すると市長を叱っている一市民の私が市長の上なのかということになる。ここで行政運営の組織図を考えてみると皆さんは図Aを思い浮かべられることと思う。しかし私の会社は図Bの考え方で業務を進めている。本来、行政機関というのは究極のサービス業であると称されることからもお客様である市民が主人公であり、組織図では一番上でなければならないと思うのである。同じ様な事例として医療の現場においても主人公は患者であり医師ではない、患者がいなければ医師の存在は必要ないのである。<br />
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社長や市長も組織図では最も下に存在して、関わる人たちを支えるという心構えが大切であると考えている。だから私はお客様や従業員から叱られることがある。<br />
<br />
図Bの視座に立つと、真実を正しく見つめ、それを表現する勇気のある「潮騒」のお母さんのように市長を叱って頂く市民の存在は、道徳的的にも行政運営の組織図的に考えても正しいことであると思うのである。あとは叱られる方にそれを受け止める素直さと勇気があるかが問われるということになると思うが如何であろうか。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-43414570028530117612019-09-27T14:48:00.000+09:002020-05-20T14:40:43.095+09:00本音と建前22日に開催された「今の市政にひとこと言いたい 市民のつどい」に参加させて頂いた。約100名の市民によって、今の舞鶴市をより良くすることを願って意見が述べられた。中には京都府内の市政の議会傍聴を長年続けておられる方が長岡京市から意見を述べに来られていた。その方によると他市に比べると舞鶴市はマシなほうだとの発言がなされた。ある市においては少数派の意見自体が議会で述べにくい状態にあるが舞鶴市は少数派でも意見を述べる機会があるからマシだというのである。マシだから現状のままでいいのではなく、府下の各市の手本となる議会運営を目指すべきだと私は思う。 <br /><br />また、出席いただいた中村弁護士によると、市長のコラムに対して「少数派を含めた多くの意見を聞いて熟考し議論を重ねた末に、それでも意見がまとまらない時に多数決という手段で物事を決定するのが民主主義であって、ほとんど議論をせず多数派の意見を通すために多数決を用いるのは間違っている」との見解も示された。 <br /><br />市議会答弁に於いて、市長は「識者等であれば私の間違いは指摘できない」と発言されているが、今日現在までに市長派与党の市議会議員や市内の識者といえる著名な経営者の方々から、「本音を言うと市長のコラムの内容は確かに間違っていると思っている」というお声を多く頂いている。しかし直接声に出して公に意思表示されることはなく、建前優先の対応をなされており、これが大人の世界というのなら悲しいことであると思ってしまうが、私自身も家具の小売店を営んでいた時なら、お客様のほとんどが舞鶴の方々なので、様々な考え方のお客様がいらっしゃることを考えると、今の私のようにハッキリと本音を語らないようにしていたかもしれない。なぜならそこには人として大切な「利他」という尺度よりも、我利という金儲けの尺度を優先していたからなのだと思う。 <br /><br />さらに、市内の医療従事者の方の意見では、舞鶴医療センターの医師の減少に伴い医療科目が減り、この数年間で550床のベッド数が半減したとのことであった。また数年前なら助かっていた患者が専門医の不在により適切な医療対応ができないために亡くなるケースが多いこと、さらには緊急で重篤な患者は舞鶴では対応できないためドクターヘリで豊岡に搬送されている現状が語られた。「医師である私が市長になれば現在の医療体制を改善する」と力説されていたにもかかわらず、改善どころか悪化の一途をたどっている医療体制の現状を考えると、市長のコラムの最後にある「公約を実現できる候補者を選んでいただきたい」という一文に市長自身はどうなのかと、この8年余りの公約不実現の実績を問いたい思いである。舞鶴の街中には8年前から「赤ひげ市政を正す」の看板があるが、今日現在「市民で赤ひげを正さなければならない」現状があるように思う。 <br /><br />市民の尊い命が失われているという報告を聞いて、改めて市長の責任の重さを考えた。 <br /><br />市長自身、昨年4月大相撲舞鶴場所の土俵の上で倒れた時、女人禁制の土俵に上がった勇気ある女性看護師による心臓マッサージによって一命をとりとめた。この時なされた「女性は土俵から降りてください」という場内アナウンスに日本全国から非難が殺到した。さらにマスコミは「相撲界のしきたりに縛られ、社会の現実に対応できていないためだ」と相撲協会を批判した。勧進元(発起人)の四方八洲男氏は「人命が大事か、しきたりが大事かというと、人命が重い」と発言されている。また伝統を重んじる相撲協会でさえも「どんな時も、しきたりより人命が第一」と謝罪のコメントを残している。 <br /><br />舞鶴市議会の暗黙のしきたりを重んじ、少数派の意見を排除するような身勝手な答弁を市長が繰り返している限り、いつまでも尊い人命が失われ続けることになると考えるのは、考え過ぎなのだろうか? <br /><br />市長の公約にある「住んでよし」の舞鶴を実現するためにも、市長派与党を含む全ての市議会議員をはじめ市内の識者や著名な経営者の方々にも、私達一市民と共に本音で市長に意見を述べて頂きたいと願うばかりである。そこには釈迦が唱えた「利他」の心を実践する勇気が必要になるのだが…。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-82860814011223200052019-08-23T14:49:00.000+09:002020-05-20T14:26:32.057+09:00マハトマ・ガンジーの寛容の心多々見市長のオフィシャルサイトにある、私の決意には「市民がまちに誇りを持ち、行政と一緒に元気なまちづくりを頑張ろうと思ってもらえる土台、企業に投資や連携をしてまちづくりを手伝ってもらうことのできる土台ができ、持続発展可能なまちづくりの基盤が整い…人と人とのつながりを大切にする中で…」とありますが、一市民としてこの内容に疑問を感じるだけでなく、不安を感じてしまうのは私だけでしょうか。なぜなら舞鶴市広報誌5月号の「ドクターTのひとりごと」の内容と議会答弁からは「人と人とのつながりを大切にする」という強い思いが伝わってこないからです。あくまでも人と人とのつながりとは、一人ひとりのつながりが基本であり、そこには一人の小さな意見にも耳を傾けるという寛容という心の広さと優しさがあってこそ成り立つものであり、多数を占める集団という単位でのつながりではないと思うからです。 <br /><br />市長の公約に「住んでよし、働いてよし、訪れてよし」とありますが、市長が来賓等で出席される会合等において必ずクルーズ船の来港数や交流人口と経済人口の増加を話題にされますが医療環境に関しての話はほとんど聞けません。「訪れてよし」が優先されてしまい、市民が主人公である「住んでよし」という最も大切なことが忘れ去られていると思うのは私だけでしょうか。市長の顔色を気にし、忖度しながらの形式的な市民対話ではなく、より良いまちづくりを目指す純粋な一市民との対話なくして「住んでよし」の舞鶴が実現できるとはとても思えないのです。市長から見て、自分にとって耳の痛い考え方や意見を排除し、市民へ誤解を与えたことの反省もされない現状では正しい市政運営は成り立たないと思うのです。日を増すごとに、議会答弁において市長が自分の言動に対して「市職員など議会の仕組みを知っている人は、内容の間違いを指摘できないと思う」と断言された市職員の方々からも複数の市長の間違いや問題点が私のところに届いています。残念ながらこれら心ある市職員の方々の意見が市長の耳に届かないのは、届かない仕組みづくりと対応を市役所内でなされているからではないでしょうか。さらに先日驚いたことが発生しました、市長が来賓として出席されたある会合の席で「私は舞鶴の経営者の中でパシフィックウエーブの田中啓介を恨んでいる」とお話しされたとのことが私の耳に届きました。録音されていたわけでは無いので一字一句が発言通りではないかもしれませんが、私に対してよほど腹を立てていらっしゃることは理解できました。先月のこのコラムでも書きましたがFMまいづるの私の番組「寝ても眠れない日本人へ」に対する検閲的な行為も含めて、市長の言動に一市民として恥ずかしさと悲しさを感じてしまいます。 <br /><br />学生のころからの友人の兄であり弊社の株主でもあった原丈人氏が現在、内閣府本府参与という内閣総理大臣のブレーンというポジションで活躍されているのですが、原氏は決して総理のイエスマンではなく、常に地球規模の視野で提言をされており、時には総理にとって耳の痛い意見もあるはずですが、総理はその意見に耳を傾けるだけの心の広さを持っておられるということだと理解しています。舞鶴市にもこのような機関を設置するくらいの心の広さを市長に持っていただけたらと思います。それには市議会議員の皆さんにも同じく、公平で公正な寛容という心の広さと優しさを大切にした行動をお願いしたいと思うのです。特に公明党議員の方々には党の公約にある「小さな声を、聴く力」を実践いただきたいと願っています。議員という前に心ある一人の人間として、党利党略や自己の保身が優先されるような議会運営を正す勇気をもって行動して頂きたいと思うのです。約9年前の舞鶴市議会を見た時のことを思い起こすのですが、当時の斎藤市長に対する罵声やヤジで埋め尽くされたかのような、議会の目的を逸脱した酷い有様は市民として悲しさを感じるものでした。広義に解釈すると現在の舞鶴市においても少数意見に対して同じような行為が進行しているように思うのですが市民の皆様は如何お考えでしょうか。 <br /><br />「市長の生き方」と題して6月と7月に寄稿したこのコラムについて、先日家族から「いつまでこんなことをやるの?やったところで何も変わらないと思うし、何もお父さんがやらなくてもいいんじゃないの?」と訊かれました。 <br /><br />この言葉の中で「やったところで何も変わらない」というフレーズに今の舞鶴を映し出していると感じた次第です。より良いまちづくりを目指そうとしても小さな一人の力ではどうしようもないという諦めの思いを若者が抱いている限り、舞鶴の未来に希望を見出すことはできないと思うのです。改めて政治というものの原点には小さな意見を受け止める寛容の心が不可欠であると強く感じる出来事でした。 <br /><br />8月6日の広島平和記念式典で広島の松井市長は「平和で持続可能な世界を実現するためには、ガンジーが言及する寛容の心を持つことが必要」と話されました。ご存知の通りガンジーはインドの独立と民主化を進めるにあたり、立場や考え方の異なる人々を「寛容」の心で受け止めることが重要であると唱えた人物です。 <br /><br />未来に希望の持てる舞鶴のまちづくりを考えて頂く機会にしていただきたいと願い、ガンジーの残した名言をご紹介させて頂きます。 <br /><br />〇重要なのは行為そのものであって結果ではありません。行為が実を結ぶかどうかは、自分でどうにかできるものではなく生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのです。 <br /><br />〇たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです。 <br /><br />〇良心の問題に関しては、多数決の法則は適用されないのです。 <br /><br />〇握り拳と握手はできないのです。 <br /><br />〇過去は私たちのものだが、私たちは過去のものではない。私たちは現在を生き、未来をつくる。たとえその未来に私たちがいなくても、そこには子供たちがいるのだから。 <br /><br />私は多々見市長に握り拳を開いていただき、共により良い舞鶴を作り上げて頂くことを願っています。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-31963127692114111102019-06-28T12:00:00.000+09:002019-06-28T12:00:00.485+09:00市長という生き方「広報まいづる」5月号の「ドクターTのひとりごと」のコーナーで掲載されていた「選挙のポイント」と題した内容に疑問を感じた市民がどれくらいいらしたことだろうか? <br /><br />京都新聞もこの内容を是とせず記事にした。それによると多々見市長の主張として、公約について「候補者が公約を実行するには、財源確保の問題、法令や条例との整合性、利害関係者との調整などが必要」とし、「予算編成権を持つ首長と、議会の過半数以上の議席を有する議員団とが、合意できる内容でなければならない」と述べ、少数議員団の公約の実現に対する否定的な考えや、公約を実現できる候補者選びを呼び掛ける表現について問題提起している。そこには同志社大総合政策科学研究科の新川達郎教授(公共政策学、地方自治論)の意見を掲載し「多数決に至るまで、少数意見をどれだけ尊重できるかが民主主義の質を決める。少数意見が多数になることもある。選挙の政策提案は、実現される前提でなければいけない―との主張は民主主義のメカニズムを否定することになる」と指摘している。さらに5月27日の京都新聞には、同日の記者会見で、市長の意見として「少数意見を排除するとは書いておらず、識者や市職員など議会の仕組みを知っている人は、内容の間違いを指摘できないと思う」と述べ、問題がないとの認識を示した、とあった。私はこの表現も看過できない、なぜなら識者や市職員等は市長に対してイエスマンであるかのような内容であり、「裸の王様」の童話を連想せずにはおれないばかりか、識者とはどういう人を指すのかその定義を明確にしていないこともこの発言は誤解を生むことになると思う。さらに文字通り解釈すれば、「識者や議会の仕組みを知っている市職員等でない人は内容を間違って解釈する可能性が大いにある」ということになり、識者と市職員等ではない「一般市民にはほとんど理解できない内容だ」ということを自ら表現したことにもなりかねない、これは市長としての発言としては大失態であると考えるが如何であろうか? <br /><br />改めてここで私は識者ではない一市民として内容の間違いを指摘させて頂きたいと思う。少数意見を排除するとは書いていないとのことであるが、「予算編成権を持つ首長と、議会の過半数以上の議席を有する議員団とが、合意できる内容でなければならない」とすると、いくら素晴らしい内容でも市長と議員団が合意できなければだめ、というように解釈できる。ここで怖いのは市長と議員団の政治家としての目的意識である。何のために市長をまた議員をしているのか、私の経験から政治家の中には政治家というステータスと議員報酬を目的としている人物を少なからず見てきたが、そのような人物は保身を基本としており、素晴らしい少数意見に耳を傾ける取り組みをなかなかしない。今回の内容を私に表現させて頂くなら、「少数意見でもその内容の裏付けや計画の信ぴょう性を明確に示し、市民の役に立つ内容と判断したら必ず議会に進言することをお約束します」とするが、皆さんも同じお考えではないかと思う。ベンチャー会社の社長として紹介されることが多い私からすると、常に既得権益重視の多数派には認められないことが多い少数派であるベンチャービジネスは舞鶴では育たないということにもなると懸念する。現に日本褥瘡学会等に於ける弊社商品に対する対応はどんなに素晴らしい治験データ等の実績に基づいて説明しても、財力的に力を持つエアマットレスマーカー等の多数派の壁を崩すことはできない現状があり、現舞鶴市議会の構造と似ているように思う。 <br /><br />床ずれマットの業界ではライバルにあたるエアマットメーカーの研究者から「自分が寝たきりになったら貴社のマットレスを使いたい」と言って頂いたことがある。同じ研究者から頂いたこの本音は、これ以上ない誉め言葉であると受け止めさせて頂いた。本音と建前が交じり合う社会に於いて正しいことを多数決によって正しいと判断いただけない、ということを何度も体験している私としては市長の発言は是と出来ない。私は人間社会における正しいという定義は、お金という尺度を徹底的に排除し、純粋に相対する人の喜びを我が喜びと出来るところにのみ存在すると考えている。あくまでも識者でない私の意見なので市長や議員の心には響かないかもしれないが一市民として声を発せずにはおれないのである。 <br /><br />さらに京都新聞によると、市長は議会の中での少数意見については「住民や市民、国民に支持されれば増えてくる。どうしても意見を通したいなら、代案を出したり、論理的に多数派の意見を論破したりすれば住民もわかる。その努力をせず、文句ばっかり言っていても進まない」と指摘した、とある。確かに全く実現不可能な空想的な公約を掲げる候補者がいることは有権者として注意しておかなければならないと思うが、先に述べたようにいくら論理的に多数派の意見を論破しても、様々な隠れた既得権益等の価値観によって少数派の意見が認められないという現実を踏まえて、これを改革する勇気と実行力が市長には必要であると思う。 <br /><br />最後に京都新聞の記者の方がどのような態度で市長とやり取りをしたかは詳細が分からないので一概に京都新聞が全て正しいとは言えないが、少なくとも公人としての市長のこの度の対応からは人としての謙虚さが感じられないことは否定できないと感じている。また、この度のあのようなひとりごとの内容を書くに至った経緯が市議選、市長選、府議選の中で発せられた特定の政治家の言動に対してのものなら、余りにも近視眼的で大人げない対応と言わずにおれない。識者ではない一市民としてどうか今一度、市長の目的とは何かを多くの信託を頂いた市民の視座に立って、「市長という生き方」を見つめ直していただきたいと願うばかりである。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-21930247992297118462019-05-24T12:00:00.000+09:002019-06-06T16:45:51.388+09:00マナーとエチケット仕事の関係で海外に行く機会が多くなり、どの国でも飛行機を降りた瞬間にそれぞれの国の特有な匂いがあると感じている。その匂いは食文化を中心に生活に関わるものではないかと思う。さらに国特有の風習や文化があり、私は今週マレーシアでラマダンという断食の期間にもかかわらず盛大な夕食パーティに参加させて頂いた。水も飲んではいけない断食の時間は日の出から日の入りまでであり、日没後の食事は許されていることを知った。それだけに夕食は豪華な場合が多いとのことであった。私はイスラム教の信者にとってこのラマダンによって体のデトックス(解毒)効果を促し健康管理に大きな役割を果たしているようにも感じた。宗教というものはそれぞれの地域の気候・環境・風土において最適な環境適応の肉体的精神的な生活術と表現することもできると思う。 <br />
<br />
また国ごとにある特有な風習として、タイに行くと挨拶時はもちろん様々な場面で両手を合わせて対応して頂ける。この自然でささやかな仕草にタイという国に対して訪れた人達は親近感と居心地の良さを実感することになる。 <br />
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さらに国ごとに特有なマナーやエチケットというものが存在することも実感させられることがある。良いマナーばかりではないこともあり、二週間前に訪れた中国は広州でのこと、私が地下鉄に乗ろうとした時、扉の前に多くの人が立ちふさがり降りることができない。押しのけて降りるしかなく、そうすると私を睨みつけてくる。降りなければ乗れないことは理解できているはずだがマナーが全く無いと言わざるを得ない。さらにホテルでの朝食の時のこと、2歳くらいの子供が窓の外を見たいとぐずった、すると母親は食事しているテーブルの上に靴を履いたままの子供を立たせて外を見せながらスプーンで料理を口に運んでいた。さすがに隣の席だけに看過できず注意しようとした時、ホテルの担当者が注意をしたがマナーを論じる以前の問題であると思う。 <br />
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私が中国を訪れはじめた1985年頃はとてもシャイで優しさに溢れた人ばかりだったと記憶しているだけに今の中国は残念でならない。 <br />
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しかし中国にも素晴らしいレストランがある。朝食時に嫌な思いをした日の夕食に火鍋レストランチェーン「ハイディーラオ(海底撈)」に行った。テーブルまでの案内からメガネ拭き紙のサービス、カバンや上着を布袋で覆ってくれ、注文時も親切な説明をしてくれ、食事中何度も必要なものはないかと尋ねてくれる。食事後には日本から来てくれたということでお土産も準備してくれていた。食事を提供する側としてのマナーとエチケットのバランスが整いとても気持ちよく食事ができた。 <br />
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一日のうちに最悪の中国と最高の中国を体験した感がある。このレストランは世界に店舗展開しており、創業者の施永宏氏の社員教育の素晴らしさが世界的にも注目を集めており、昨年香港証券取引所でIPOを果たし、47歳の共同創業者の張勇夫妻の合計資産額は約8900億円に達する世界企業である。 <br />
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マナーとは「社会的に望ましい行動や作法」という意味があり「電車内のマナー」「タバコのマナー」「食事のマナー」などがあり、公共の場など多くの人たちが集う時の立ち居振る舞いのあり方において使われ、一方エチケットには「特定の相手を不快にさせない気配り」といった意味があり「エチケットブラシ」「エチケット袋」「エチケットスプレー」のように使われる。 <br />
<br />
エチケットの語源を調べてみるとフランスの宮廷での行動を示した通用札とのことなので、それぞれの宮廷に独自のエチケットが存在する。ゴルフでも各ゴルフ場に独自のエチケットを策定することがあることからもエチケット委員会が存在する。エチケット委員会があってもマナー委員会がないのは、マナーのない人はゴルフをする資格がないということだと思う。 <br />
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マナーとエチケットをバランスよく実行することで自分自身はもちろん周りの人も幸せな気分になることができると思うのである。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-12685440110530499912019-04-19T12:00:00.000+09:002019-05-24T15:58:50.231+09:00復興オリンピックという名の違和感4月11日、世界貿易機関(WTO)の上級委員会は、韓国による福島など8県産の水産物輸入禁止措置を不当とした「一審」の紛争処理小委員会(パネル)の判断を破棄した。日本は逆転敗訴となった。上級委は、パネルの判断はWTOの検疫関連協定の解釈に誤りがあると指摘。韓国の措置について「必要以上に貿易制限的」としたり、日本を不公正に差別したりしたものとはいえないとした。また、韓国政府が消費者保護のためにどのような措置を取れば適切かは判断できないとし、食品で許容できる放射線レベルなど安全性の問題でも見解を示さないとした。 <br /><br />私はこの判断を受けて急遽14日に安倍首相は福島第一原発に飛んだと考えている。 <br /><br />多くの日本人がWTOの判断を否定的に捉え韓国を非難した。私も心情的に日本人ならこれらの反応は正しいのではないかとも思ったが、ここで今一度冷静に福島の現状から今回のWTOの判断を考えてみたい。 <br /><br />まず、WTOは安全性について見解を示す立場ではないことを踏まえ、しっかりとした判断を行ったと考えている。では何を判断基準としたのかと考えた時、あくまでも私的な推測であるが、東京電力福島第一原発の現状から見た水産物への影響であり、それはズバリ汚染水が最も大きな問題であると考えている。 <br /><br />東京電力は福島第一原発で保管する処理済みの汚染水が100万トンを超えたと発表した。事故から8年がたった今も汚染水は増え続け、東電の計画では敷地内の保管容量は2年以内に限界に達する。時間切れが迫る中、政府や東電はその処分方法についていまだ決定していない。なし崩しで海への排水が始まるのではないかと地元の人々は警戒を強めている。また、この8年間に海への流出事故は複数回発生しており、決して安全の確保ができているとは言えない。 <br /><br />さらに、なぜ保管容量の計画上限を2年以内として発表しているのかを考えると、東京オリンピックが終わるまでは何としても保管しなければならないということだと思うのである。その理由は安倍首相が東京オリンピック誘致の際、海外メディアからの汚染水に関する質問に対して、「汚染水は完全にシールドされているから絶対に安全である」と明言したことであり、日本政府はこの不実の言葉を形式的にも守らなければならないということである。さらにお世辞にも適材適所とは言えない失言のデパートともいえるような桜田議員をオリンピック担当大臣に任命するくらい無責任な安倍政権に対して私は大きな不安を感じずにはおれない。 <br /><br />オリンピックという大きな祭りが終わった後に表面化してくる様々な問題を考えると、かなり強固な心構えが我々国民にも必要になると思うのである。約40年前になるが私自身ある原発の排水路近くで冬でも夏の魚のキスが釣れるということで釣りに行った。驚いたことに12匹釣った内の2匹の背骨が曲がっていた。原発との因果関係を証明することはできないが、何かが起こっているという恐ろしさを感じずにはおれなかった。この表現は風評被害を招きかねないとの、お叱りの声が聞こえてきそうだが、「人間も地球環境の一部である」という私の持論からすると、事実を隠蔽することはしたくない。 <br /><br />話を戻して、改めてWTOの判断を地球的視野に立って考えてみると、この判断を真摯に受け止めることが重要であり、安易に否定したり非難することは出来ないと思う。現鈴木大臣は「オリンピックの成功が復興の後押しになる」とコメントしたが、順序が逆で「復興オリンピック」という名に恥じない真の復興を目指すべきが最優先であると考えるが、皆さんはどうお考えになるだろうか。 <br /><br />(日本褥瘡学会・日本睡眠学会等会員、聖母の小さな学校・連携懇話会委員)田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-26801158277246506082019-03-22T12:00:00.000+09:002019-03-27T14:16:41.306+09:00商人である前に人間として必要なこと日々商いをするにあたり、私が常に心にとどめている教えがある。それは常軌を逸した価格で物が売買された戦後の復興期に商道徳の大切さを全国行脚して伝え続けた「商業界」主幹の倉本長治が示した商売十訓である。私自身、商業界を通じ倉本長治の長男の倉本初夫二代目主幹には約30年間お世話になった。今回はこの教えについて私なりの解釈でお伝えしたい。その教えの基本となるのが「店は客のためにある」という言葉である。この意味は、店(会社)は経営者のものではなく、また儲けるためだけの場所でもない。店はお客さんに喜んでいただくという役割を実践する場であり、その喜びを自分自身の喜びとして受け止め、幸せな商人という人生を歩む真の目的が店にあるということだと解釈している。<br />
「商売十訓」<br />
一、<span style="white-space: pre;"> </span>損得より先きに善悪を考えよう<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>目先の売り上げや儲けを優先的に考えるのではなく、人として正しい行為なのかを判断の基本とすることが大切であるということ。詩人である相田みつをも「損か得か、人間の物差し。嘘かまことか、神様の物差し」と言っている。金儲けがどんなに上手くても商売人として幸せな人生が歩めるということではない。</li>
</ul>
二、<span style="white-space: pre;"> </span>創意を尊びつつ良い事は真似ろ<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>単なる人の物まねではなく創造者の目指した目的を理解し、尊敬の念をもって真似ることが大切であるということ。弘法大師も「先人の跡を求めず、求めたるところを求めよ」という言葉を残している。</li>
</ul>
三、<span style="white-space: pre;"> </span>お客に有利な商いを毎日続けよ<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>商品の価格もサービスも全てにおいてお客さんに喜んでいただくということを最優先に考えようということ。</li>
</ul>
四、 愛と真実で適正利潤を確保せよ<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>商品の価格や儲けを決めるにあたり、お客さんを大切にするという純粋な愛の尺度を基本とし、儲けすぎないよう、損しないようバランスを保ち、「足るを知る」という謙虚さと感謝の気持ちを忘れてはならないということ。</li>
</ul>
五、<span style="white-space: pre;"> </span>欠損は社会の為にも不善と悟れ<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>商売をしていて赤字を出すようでは納税の義務が果たせていないということになる。そして赤字では商売が継続できなくなり、結果的にお客さんに迷惑を掛けるということになるということ。</li>
</ul>
六、 お互いに知恵と力を合せて働け<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>自分の店だけを考えるのではなく業界の発展という広い視野を持って、様々な人との交流を進める中でより良い商品やサービスを創り出すことが大切ということ。</li>
</ul>
七、 店の発展を社会の幸福と信ぜよ<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>愛と真実をもって商いをしているならば、迷いなく自分自身の店の発展は社会貢献に直接つながっている、という自信を持って商いを行ことが大切であるということ。</li>
</ul>
八、 公正で公平な社会的活動を行え<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>誰に対しても差別をすることなく常に感謝の気持ちを大切にし、孔子が人生で一番大切なこととして示した「恕」という思いやりの心でお客さんに接することが大切ということ。</li>
</ul>
九、 文化のために経営を合理化せよ<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>日々の経営に於いてより良い方法を導き出すことができれば、自ずとお客さんの生活様式にも変化をもたらすことになり、そこに新しい文化が育まれる。商売人は文化の創造者にもなれる尊い仕事であるということ。</li>
</ul>
十、 正しく生きる商人に誇りを持て<br />
<ul style="list-style-type: none;">
<li>自分の生き様が商人である前に人として正しく生きているという自負があるなら、その生き方に誇りを持つべきであるということ。</li>
</ul>
私はこれからもこの教えを礎として商人としての人生を歩み続けたいと思う。<br />
<span style="white-space: pre;"> </span><br />
<br />
<br />田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-88754031515416491882019-02-22T12:00:00.000+09:002019-02-25T12:57:24.970+09:00心とは?信じるとは?恋とは?愛とは?私たちは心のあり方次第で一つの出来事をプラスにもマイナスにも理解することができます。表現を変えると何事もポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかという心のあり方によって、人生を幸せなものにするか否かということに繋がると思うのです。<br />
では心はどの場所にあるのか?と皆さんも考えたことがあると思います。例えば心が痛む・心あたたまる、よく似た表現で胸が痛む・胸が熱くなるという表現を考えると心は胸にあると考えていいのではないかと思うのです。物事の理解は頭(脳)で行うとしても、心が頭にあるとは思えません。<br />
ここで心のあり方について考えてみますと心豊かな人というのは愛に満ちた人と同じ意味として理解できると思います。テレビのCMのフレーズに「信じられる愛はあるんか?」というのがありますが信じられる愛とはどういうことなのか?信じるとは何か?を考えてみますと人や物に対して、ある部分やある事柄について予測し、待つこと(期待)であり、期待通りの結果が出た時には、こうなると信じていた、信じていて良かった、という答えになり、期待したより悪い結果が出た時は信じていたのに・・・残念!とか裏切られた、という表現をします。要するに信じるということは「自分の価値観で勝手に相手に期待をして自分の予測や欲求を満たそうとすること」なのではないかと思うのです。<br />
「信じる」という言葉を使った時点で、全てではなく、信じている部分と信じていない部分があるということになり、全てを受け入れるということではないということを意味していると思うのです。<br />
では愛とは何か?それは対象となるものを全てそのまま、ありのままを受け入れたうえでの対応行為のことであり、その行為に対し、見返りといった欲が存在しない心の状態と言えるのではないでしょうか。<br />
ここで知っているようで知らない「愛と恋」についてどこが違うのかと考えてみますと、まず心の場所が違っています。恋という字は心が下にあり、我欲を満たしたいという思いである下心が存在した状態であると思うのです。例えば、人を好きになるとほとんどの場合、その相手にも自分のことを好きになって欲しいという見返りを求める下心といえる欲求が同居しています。私はあなたのことが好きです、でも貴方が私のことを好きかどうかは問いません、という心の状態は恋よりも愛に近い状態だと思うのです。<br />
愛は下心ではなく心が文字の中心にあります。同じく心が中心にある文字として慶(個人的なよろこびではなく公なよろこび)、憂(亡くなった人を偲び悲しんでいる人の様子であり、その人に寄り添う状態が優しい)があり、どれも個人の欲に関わる下心的な意味を含んでいません。<br />
歴史から愛を考えると弘法大師が仏教とともに伝えた愛染明王というのが日本に愛という文字が定着した始まりともいわれています。さらに1549年フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた時にはLOVEを「ご大切」と表現し、そののち明治になってから愛と訳したと言われています。単に大切というのではなく「ご大切」と表現することによって当時の日本人の人や物を純粋に大切にする心を理解した、まさに愛の本質を表現するのに相応しい言葉だと思うのです。私はあなたを愛しています、というその真意は「私はあなたをご大切に思い、接してまいります」ということになります。<br />
私自身「ご大切」という言葉に出会えたことで、愛について少し理解を進めることができたように思うのです。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-89958817099325430512019-01-18T13:01:00.000+09:002019-01-23T13:03:13.019+09:00抱負と夢 皆様におかれましては心新たに良い年を迎えられたことと思います。 <br /><br />新年を迎えて今年の抱負をつくったり、夢を描いたり、未来に向けて様々な取り組みがなされるのがお正月です。今回は抱負と夢についてお伝えしたいと思います。 <br /><br />まず抱負とは具体的な実行計画と考えます。例えば高校野球で甲子園に出たいというのは抱負ではなく目標であり夢に値するものであり、その実現のために「毎日素振りを千回行う」というのが抱負ということになると思うのです。目標や夢の達成のための具体的な日々の実行計画が抱負ですからコツコツと積み上げていくものでなければならないということになります。 <br /><br />ここで、抱負というと前向きでプラス発想的なイメージがあるにもかかわらず、なぜ「負(まける)」という字が付いているのかということを疑問に思い調べてみると、負けるではなく「背負う」という意味だということのようです。だから、抱負というのは前に抱いて背中に背負うということになり、全身で実践するということになります。 <br /><br />次に夢ということについて考えてみると、目標として捉える夢と睡眠中に見る夢があり、睡眠中に見る夢は目が覚めた時に夢も終わるということから、人の夢と書いて儚い(はかない)と読むのはここに所以があると思うのです。では目標としての夢を考えると夢実現のための具体的な計画を立て、それをコツコツと実践していくしか実現というゴールに到達することができないわけであり、この地道なコツコツとした取り組みが辛くて苦しい場合が多いため、ほとんどの人が途中で挫折し諦めてしまうことからも人の夢は儚いということになったのではないかとも思うのです。それだけに描いた夢を実現することができるように、毎日実現のための様々な具体的な取り組みを実行し続けることが大切なのであり、実行し続けた人にこそ味わうことができる成功という通過点があるのだと思うのです。 <br /><br />ここで世界の著名人が残した夢に関するコメントを調べてみました。 <br /><br />「昨日の夢は今日の希望であり、明日の現実である(ロケット開発の父 ロバート・ゴダート)」 <br /><br />「夢を与えられれば、それを実現する力も必ず与えられる(鴎のジョナサン作家 リチャード・バック)」 <br /><br />「夢を見ることができるということは、その夢を実現できるということだ(ウォルト・ディズニー)」 <br /><br />「夜に夢を見るのではない、私は一日中夢を見ている、生きるために夢を見ている。(映画監督 スティーブン・スピルバーグ)」 <br /><br />「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に夢なき者に成功なし。(吉田松陰)」 <br /><br />この様に多くの人が夢の実現について言葉を残しているということは、まさに夢を実現することが如何に難しいかということであり、簡単に夢が実現できるのであれば誰もこのようなコメントは残さないはずです。 <br /><br />最後に成功とは人の役に立つという功績を成すことであり、決して多額のお金を儲けたり有名になることではなく、ささやかであっても「人の価値観ではなく自分らしく」人の役に立って人の心をあたたかくすることができることを夢として描き、それを実現することこそとても尊い成功と思うのです。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-14995538840281057042018-11-16T16:32:00.000+09:002018-12-06T16:32:39.847+09:00「希望に満ちた舞鶴」からの質問と回答 前回お伝えした、10月16日の城南中学校での講演会の後で生徒諸君から三つの質問を頂いたので、ここで回答させて頂きたいと思います。 <br /><br />質問①「人のために頑張る、というのは例えばどんなことがありますか?」(1年生) <br /><br />身近な例では、お父さんやお母さんのお手伝いをすることがあると思います。純粋にお父さんやお母さんを喜ばそうと考えてお手伝いをすると、お父さんやお母さんの笑顔と共に「手伝ってくれてありがとう」という感謝の言葉をもらうことが出来ます。すると心がとてもあたたかく嬉しくなります。でもお駄賃をもらうためのお手伝いだと、お駄賃の額によって多ければ嬉しいし、少なければ残念に思ったり腹が立ったりします。お手伝いの内容によって、自分自身の心の中で勝手にお駄賃の額を決めてしまい、「100円くれるなら手伝うよ!」というふうに交渉してしまうようになります。さらには金額に応じた手伝い方になってしまいます。これだと、金儲けを目的にして仕事をしていることと同じになり、お客さんの喜びを自分の喜びとして感じることが出来なくなってしまうのです。お金を儲けることは大切なことですが、これは人生において目標でしかなく目的にはなり得ません。社会に於いてはどんなものにも価格があるわけですが、お客さんが納得して頂ける価格を決めることはとても難しいことです。お金という物差しを取り外して、心から人を喜ばせて自分自身が喜べることができた時、とても幸せな気持ちになります。だからどんなことでも人のために頑張ったつもりでも本当は自分自身が幸せになるために努力しているということになると思うのです。でももし人を喜ばせようとして努力しているにもかかわらず、自分自身の中で苦しみばかりを感じて、今だけじゃなく将来においても何一つ喜びを感じることが出来ないと思う行いなら、ひとまずそれを止めてみて冷静に広い視野で考え直すことも必要だと思います。 <br /><br />質問②「田中さんにとって睡眠とはどのようなもので、なぜここまで人々の役に立つものを開発できたのですか?」(2年生) <br /><br />私にとってというより、生き物にとって睡眠とは生命維持の基本となるもので、呼吸の次に食事や排せつと共にとても大切なものだと思います。睡眠を効率よくとることが出来れば自然治癒力が高まり、健康な状態を維持しやすくなります。そこで快適な睡眠を得ていただくことが出来るよう睡眠環境としてもっとも重要な敷き寝具の開発をしようと決め、それも今まで日本になかった素晴らしいものを作って人々を驚かせようと考えました。そして約25年前に日本人に適したウォーターベッドを開発し、日本の有名なウォーターベッドメーカーの供給元として日本中でブームをつくったのです。でもウォーターベッドにはいくつかの弱点がありましたから、これをすべて解決することが出きればもっと多くの人々が驚き喜んでくれて「あなたのお陰でこんなに健康になれました」と感謝の声を頂くことができると考え、何とかジェルトロンという商品を開発することができました。そして現在も人の役に立てたという喜びを実感するのを楽しみに更なる素晴らしい商品の開発を続けています。 <br /><br />質問③「田中さんが会社をつくるにあたって、一番最初に目的にしたことや、信用・信頼した人はいますか?」(2年生) <br /><br />私が自分の会社をつくるにあたってまず会社の「理念」を考えました。それを社是として「パシフィックウエーブは睡眠環境を通じ人類の魂・精神・肉体の健康向上に奉仕する」と決めました。社是を実践することによって「人々に喜んでいただき、その姿を見て自分たちも喜ぶ」ということを会社の目指すべき目的として毎日の仕事をさせて頂いています。その後ウォーターベッドからジェルトロンに進化する上で人類だけでなく地球上の生命体(陸生動物)すべてに活用できる睡眠環境の開発を目指すべきであると考え、ジェルトロンのロゴマークにはGEL PRODUCTS FOR TERRESTRIALという言葉が入っています。そして現在ジェルトロン商品は動物用としてもご利用いただいております。TERRESTRIALというと聞きなれない単語ですがE.T(EXTRA‐TERRESTRIAL)という映画をご存知の方が多いと思いますが、地球外生命体ということです。最後に信用・信頼した人についてですが、私たちは様々な人とのご縁によって生きているわけですから、私は先ずは人に対して性善説で考えるようにし、基本的に人を信用するところからご縁が始まると考えています。ようするに読んで字の如く「信じて用いる」関係の人は私にはたくさん存在します。しかし、信頼という「信じて頼る」関係の人は人生の中で部分的に成り立つものだと考えます。例えばお医者さんに手術をしてもらうといった場合は麻酔の効いた自分でどうすることもできない状態ですから、お医者さんに頼って自分の命を任せる関係です。もう一つの事例として、信用関係というのは「直立の私が後ろに倒れていくのでケガをしないようにしっかりと支えてね」とお願いして倒れていったとき、自分が考えているタイミングで支えてくれないと感じた瞬間に手と利き足を後ろに出してケガをしないように自分で自分を守る関係であると考えます。しかし信頼関係というのは支え役の相手にすべて任している状態ですから、支え役が失敗して自分が大ケガをしても支え役の人を一切責めず、自分が頼ったという事実を受け止めることのできる関係です。ですから仕事において、ある業務に関しては信頼して任せるといった部分的な信頼関係はありますが全面的な信頼は、してもされても困ることになると考えます。世の中に信用金庫があっても信頼金庫が無いということでもよくわかると思いますが、特にお金に関しては常にいざという時は自己責任で対処しなければならない信用関係が基本ということです。しかしながら「睡眠環境に関してはパシフィックウエーブに頼ろう、もしそれでダメなら諦めよう」と思って頂けるくらいにお客様から信頼を頂ける製品づくりとサービスを進めていきたいと考えています。 <br /><br /> 田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-60400377070971503592018-10-26T13:56:00.000+09:002018-11-01T13:58:36.458+09:00希望に満ちた舞鶴10月16日に城南中学校で同窓会主催による講演会を開催頂き、479名の生徒と先生や御父兄等の皆さんにお話をさせて頂いた。45分の講演は私にとっては短い時間だが、生徒の皆さんにとっては体育館で床に座った状態なので長く感じられたことと思う。その状況の中で生徒の皆さんの聴く態度は素晴らしかった。 <br /><br />この度の講演タイトルが「舞鶴の下町ロッケット」ということで、弊社商品がなぜロッケットに該当するのかという説明と共に今までの弊社の歩みを話させて頂いた後、以下の内容についてお話させて頂いた。 <br /><br />まず第一に、人生の目的は自分自身が幸せに生きるということ。その過程としてまず周りの人を幸せにすることが大切であり、人の喜びをそのまま自分の喜びとして受け止めることの大切さ。要するに貴方の一つの行いによって人から感謝されたり、人の役に立ったと実感できた時、幸せな自分自身がそこに存在しているということであると思う。人の為と書いて偽りと読むように決して人の為に生きるということではない。一つの行いが儲けに繋がるとか、楽できるといった直接的な自己満足だけで完結される行いには真の幸せは実感できないということをお話しした。 <br /><br />第二は、お金は使い道を決めてから儲け方を考える。その使い道にも人の役に立つ使い道が大切で儲けて貯めることばかりを考えていては、食事と同じで便秘状態になり病気になってしまう。お金は上手に循環させることを基本として、家族や友人やお客さんといった自分に関わる人々を喜ばす使い方をすれば必ず素晴らしいご縁が育まれることになるとお話しした。 <br /><br />第三に複数の視座を持つことの大切さ、視座というのは見る位置であり、それが複数あるということは複数の価値観で物事を捉えて考えるということ。価値観が複数で多様的になれば何事においても新たな発見がしやすくなり、人の価値観を受け止めやすくなるので、人に対して優しくなれるのだということをお話しした。 <br /><br />そしてまとめとして、ある病院に於いて2カ月という余命宣告を受けた人々が看護師に残したメッセージを紹介した。そのメッセージとは「人の目を気にしないで自分自身に忠実に生きればよかった」「もっと友達を大切にすればよかった」「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」というものであり、誰も「もっとお金持ちになりたかった」「もっと有名になりたかった」といったお金や地位や名誉といった内容は無かったとのことである。それなのに人間は元気なうちは、お金の尺度に振り回されて生きているのではないだろうか。要するに人間の究極の幸せは「自分らしく、人への思いやりを大切にし、人生を楽しむ」ということになるとお伝えした。 <br /><br />そして講演の終了後に生徒会長から「生きることの目的意識を持って目標の高校・大学を決め、しっかりと学んでいきたい」との力強い宣言とも思える素晴らしい謝辞を頂き、舞鶴の未来は希望に満ちていると実感し、心から賛辞の拍手を贈らせて頂いた。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-71674251329108320382018-09-28T13:23:00.000+09:002018-10-05T13:25:13.296+09:00超能力とクリスタルボール10月6日16時半から五老ヶ岳でクリスタルボールを体感いただくイベントをFM舞鶴さんの企画で開催させて頂く。本来は9月15日の予定であったが雨の為に延期となっていた。私がクリスタルボールを手に入れたのは約25年前にアメリカンインディアンの聖地であるアリゾナ州セドナから取り寄せたのもで、当時は日本にある最も大きなサイズのものであったと記憶している。インディアンも儀式のときにクリスタルボールを使用しているとのことで、その音色は非常に宇宙的で神秘的ともいえる。音楽を聴くというよりは音色を全身で吸収するという表現がふさわしいと思う。人間の体に存在する七つのチャクラと共鳴し、体が本来有している自然治癒力や自律浄化機能を活性させることにもつながり、自分らしく生きることへの自信が溢れてくる、そんな不思議なモノなのである。五老ヶ岳でのクリスタルボールのイベントはもう10年以上前に一度だけ開催させて頂き約100名の方々にご体感いただくことが出来た。演奏中にUFOらしき飛行物体を見たという方があり、とても盛り上がった。今回のイベントでは私の宇宙観のお話もさせて頂くと共に、FM舞鶴の番組の「寝ても眠れない日本人へ」の公開録音も開催予定である。 <br />
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チャクラは肛門の少し前あたりに第1チャクラ(赤色)があり、丹田が第2(オレンジ色)、みぞおちが第3(黄色)、胸の真ん中が第4(緑色)、喉ぼとけの下あたりが第5(青色)、額の真ん中が第6(藍色)、頭頂が第7(紫色)となる。それぞれに特徴的な意味が存在し、これらチャクラを意識し稼働させるイメージを持てば生活リズムが安定し、健康に生活しやすくなる。 <br />
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私は子供のころから超能力的な現象による不思議体験を重ねてきただけにこのクリスタルボールの持つ不思議な力に魅せられた。超能力というととても縁遠く感じるが、人はみんな超能力を持っていると言って過言ではない。なぜなら超能力を英語で表現するとESP (Extra Sensory Perception:感覚外知覚)ということであり、エキストラという言葉はレギュラーにたいして表現されると考えると、人間のもつレギュラーの感覚は五感であるから、この五感に属さない知覚は第六感として全て超能力ということで大らかに解釈すればいいと考えている。そしてこのESPにerをつけてESPer(エスパー)超能力者というわけである。差はあれども人間はみんな無意識のうちに五感以外の知覚を活用して生きていると思うので、みんな超能力者と言えると思うのである。クリスタルボールを体感いただきチャクラを活性化させることで、意識して超能力を活用することの面白さに気づいていただく方が増えるとするなら、まさに望むところであり、その方とのご縁を末永く育ませて頂ければ幸いである。 <br />
<br />田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-31343154456079310822018-08-24T12:59:00.000+09:002018-08-24T12:59:19.069+09:00知覧の特攻から学ぶ 戦争の愚かさ8月は広島・長崎が被爆し、そして終戦となったことから戦争についてしっかりと考える月であると思う。私は毎年8月になると鹿児島県の知覧で体験したことを思い出す。そこには知覧特攻平和会館があり、そのすぐ近くに富屋食堂がある。この食堂を経営していたのが鳥濱トメさんという、特攻隊員にとってお母さん的な存在であった。この食堂は軍の指定食堂にもなっていたので知覧から出撃した殆どの隊員がここを訪れている。 <br />
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昭和20年6月5日、明朝に出撃することになった宮川三郎軍曹(のち少尉)が富屋食堂で二十歳の誕生日祝ってもらっていた。そして彼は「俺は明日、この時間にホタルになって帰ってくるので帰ってきたら同期の桜を歌ってくれよ」と言い残して飛び立った。そして翌日トメさんと娘と出撃前の隊員たちが食堂にいた時、扉の隙間から一匹のホタルが舞い込んできた。娘さんが「宮川軍曹が帰って来られました‼」と叫び、全員で涙を流しながら同期の桜を歌った。それからホタル館富屋食堂と呼ばれるようになった。 <br />
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もう一人私が忘れることが出来ない特攻隊員として藤井一中尉(のち少佐)がいる。彼は熊谷陸軍飛行学校で「精神訓話」の教官をしていた。当時、精神訓話といえば、軍人精神を叩き込む大切な教科であり、そんな彼は「事あらば敵陣に、敵艦に自爆せよ。俺もかならず行く」と口癖のように言っていた。(多くの他の教官も同じことを言っていたが実行した者はほとんどいなかったとのことである) <br />
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そして自分の教えを守り、教え子のほとんどが戦死していく状況にいたたまれず、彼は軍本部に「自分も出撃させてくれ」と申し出る。しかし彼はシナ事変で腕を負傷しており、飛行機の操縦は難しい状態であったことに加え、妻子があり、有能な教官であるため出撃させることを軍本部は認めなかった。しかしながら藤井中尉は何度も何度も出撃申請をした。そのことを知った妻ふく子は思い止まるよう藤井に懇願したが夫の考えが変わらないことを悟ったのである。そして藤井が週番司令として一週間宿泊勤務するため家を留守にした1944年12月14日、ふく子(24歳)は二人の子供に晴れ着を着せ荒川に身を投じたのである。翌朝、次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をしっかりとひもで結んだ3人のお雛さんのような遺体が発見された。自宅で藤井が見つけたふく子の遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、存分の活躍ができないことでしょう。お先に行って待ってます」と書かれていた。 <br />
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この後、軍本部は藤井中尉の要望を聞き入れ出撃を認めた。出撃近い日に藤井も富屋食堂にて食事をしたとのことである。そして長女の一子ちゃんに宛てて遺書を残している。 <br />
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『冷え十二月の風の吹き飛ぶ日、荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。』 <br />
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1945年5月28日、腕に障害があり操縦ができない藤井一中尉は教え子の小川彰少尉の操縦機に通信員として搭乗し、アメリカ駆逐艦ドレクスラーに命中し特攻死(29歳)したのである。 <br />
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ある記録によると、特攻作戦を発令したといわれる海軍中将・大西瀧治郎は自ら特攻を「外道(げどう)の戦法」といい、ここまでやったら天皇陛下が「もう戦争を止めよう」と言うだろうと期待していた。しかし、その願いは届かず、天皇は「体当たり機はよくやってくれた」と答えたことによって特攻作戦は続行された。さらに、特攻隊員第一号として指名された(志願ではない)関行男大尉は「僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだ。天皇陛下のためとか日本帝国のためではなく妻を護るために行く。最愛の者のために死ぬ」と言い残して出撃した。しかし関大尉が特攻出撃した翌日、新聞は「神風・関大尉!日本を守る」と報じたのである。真実を伝えることが難しい状況であったとはいえ新聞社の何と愚かな行為であろうか。現在の日本においても金銭尺度を重視する人々によってこれに類する行為がなされないようにしなければならないと思う。 <br />
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人として生きることの目的を考えた時、それはすべての人々がそれぞれ幸せに生きることであると思う。万人一人ひとりの様々な視座で、そして様々な視点で見ても戦争という行為は真の幸せには通じないと思う。宮川軍曹と藤井中尉の人生を自分自身に置き換えてみることで戦争の愚かさをしっかりと肝に銘じたいと思うのである。 田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-90455932099470751052018-07-24T16:28:00.000+09:002018-07-31T16:28:30.772+09:00自然災害から何を学ぶのかマスコミは「日本全体が地震、大雨、酷暑とたて続けに自然災害に見舞われている」と報じており、常に災害対策を意識して準備しておくことはとても重要なことである。しかしこの状況を自然災害と言っていいのかと疑問に思う。これには二つの理由があり、一つは地球誕生から約46億年という永い時間経過の中で地球はその表面の地形という表情を常に変えながら今日に至っている。地形の変化があるときは必ず地震が伴うわけで、地震は地球が生きていることの証であると思う。そもそも人間も地球という環境の構成要素の一つであると考えると、これを災害と言えるのかということである。人間の視座に立てば災害となるわけだけれど、地球の視座に立てば日常の活動ということになる。我々は古代の人々のようにもう少し地球に対して畏敬の念を持つことが必要なのではないかと思う。 <br /><br />さらに約46億歳という地球の現年齢を人間の寿命としての80歳に当てはめてみると、人間の1年間が地球にとっては5,750万年に値し、1時間が6,564年、1分間が109年ということになり、人間にとっての1秒間は地球にとって2年近い時間ということになり、人間の寿命である80年は地球の現年齢においてたった約40秒という一瞬にしか過ぎないことになる。特に今日までの60年(地球の現年齢を人間の寿命に置き換えると約30秒)という地球にとって一瞬の間に人間は地球の健康に被害をもたらす様々な自然環境破壊を行ったことになる。79年364日23時間59分30秒前には殆ど存在していなかった自動車・原子力発電・電気製品・プラスティック製品などの自然素材ではない人工加工物の製造過程やそれらの使用によって温暖化やオゾン層の破壊などを発生させ地球の健康状態を悪化させたということである。 <br /><br />ようするに我々人間が地球の生涯に影響を及ぼすような大事故を一瞬のうちに発生させてしまったということであり、その大事故によって地球の健康状態が悪くなった結果として酷暑や大雨をもたらしているにも拘らず、原因をつくった加害者である人間が被害者である地球の活動に対し自然災害というのはあまりにも身勝手と言えるのではないだろうか、というのが二つ目の理由である。 <br /><br />よく似た事例として、がん細胞は自分が成長することで自分に栄養を与えてくれる人間の体まで滅ぼしてしまい、その結果自分自身も死んでしまうことになる。永く生きることを考えることができる細胞ならどこかの時点で人体への影響を考え、調和のとれた共生できる生き方に切り替えできるはずである。我々人間は地球の構成要素という一つの細胞として地球に対して正しく切り替えた対応ができる智恵と力と勇気も持っていると私は信じている。そしてそれを実践するには政治や経済活動すべてにおいて金銭尺度を外し、「利他の心」を基本とすることが特効薬だと考えるが如何であろうか。 <br /><br />商売においても目先の利益を追求しすぎるとお客さんが見えなくなり、お客さんから必要とされなくなり倒産してしまうことになるが、これもがん細胞の生き方と同じだとは言えないだろうか。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-49982904393817292162018-06-26T16:27:00.000+09:002018-07-31T16:27:41.954+09:00日大アメフト問題といじめ日本中を騒がせた日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックル問題で、6月21日に関東学生アメフト連盟はタックルをした宮川選手からに反省文を受け取り、そこには「指示があったとはいえ逆らえなかった自らの心の弱さ」と公式戦出場停止処分中の「日大アメフト部を早く復活させてあげてほしい」と記されており、そして自分はチームには戻らないことを明言しているとの報道がありました。 <br /><br />この問題は「いじめ」の構造そのものであると考えることが出来ないでしょうか。 <br /><br />小学校のあるクラス(日大アメフト部)にU君(内田監督)といういじめっ子のリーダーがいた。そのU君には子分のI君(井上コーチ)がいて、いつも二人が中心になってクラスで遊んでおり、U君の気に入らない人がいるとI君といじめたりすることが当たり前になっていた。そんなある日、隣のクラス(関西学院大学)とサッカー(アメフト)の試合をすることになった。U君はもし隣のクラスに負けたりすると威張れなくなるので、どんなことをしてでも勝たなければならないと考えた。そこでU君とI君はクラスメイトのM君(宮川選手)に「これからも僕たちと一緒に遊んでほしいなら隣のクラスのO君(奥野選手)にケガをさせろ!それができないならこれからもう一緒に遊んでやらない、そしてお前をいじめてやる。」と言ったのです。M君はいじめられたりするのが嫌だったので悪いこととは判っていながら、O君を突き飛ばしてケガをさせました。誰も見ていなかったらO君はM君に突き飛ばされてケガをしたということで、二人の問題として済まされていたことになっていたでしょう。この様な出来事はいたる所で繰り返されている「いじめ」と同じだと思うのです。 <br /><br />しかし今回はその様子をカメラで撮っていた人がいて大問題になりました。でももし誰もカメラで撮影していなかったら突き飛ばした証拠がありません。今回証拠があったということは神様がM君を正しい生き方に戻るチャンスを与えてくれたのだと思うのです。 <br /><br />そしてM君は自らの意思で、U君やI君にいじめられるのを覚悟し、さらには転校(退部)をすることをも覚悟して自分に指図したU君とI君の名前を出してO君や学校の皆に事実を伝えて謝りました。 <br /><br />ここで状況を整理しますとM君はU君とI君から「直接的ないじめ」を受けており、O君はU君とI君から「間接的にいじめ」を受けていることにもなると思うのです。 <br /><br />いじめの現場にはこのようなM君やO君がいるのです。M君やO君を助けることが出来るのは学校に於いてはクラスや部活の担任であり、友達が助けてくれることは殆どありません。M君のように親や家族に対して、友達からいじめられている様子を全て話すことが出来る子供はほんの僅かであり、ほとんどの子供は親や家族に心配をかけないようにと考え、全てを伝えることはしないのです。 <br /><br />今回の問題でとても残念で許し難いのは、学生を助けるべき立場にある指導者二人がいじめ行為を行ったこと、さらには理事長や学長までもが真摯にこの問題と対峙したとは言えないことです。証拠の映像が無ければ学校ぐるみで隠ぺいされていた可能性は大きいと思います。 <br /><br />少なくとも内田監督と井上コーチの二人がアメリカンフットボールというスポーツを行う目的をしっかりと理解できていたなら、そして単なる指導者ではなく教育者という大きな視座に立つことが出来ていたなら今回の行為は絶対に発生しなかったと思うのです。 <br /><br />(指導と教育の違いについては癒しの生活31をご参照頂ければ幸いです。) <br /><br />今回の出来事を身近にある「いじめ」問題を見つめ直す、きっかけにしていただければ幸いです。 <br /><br /> <br /><br />聖母の小さな学校・連携懇話会委員田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-67046872106897484192018-05-22T16:24:00.000+09:002018-07-31T16:26:53.995+09:00綾小路マシュマロ5月はシンガポールでの「健康・介護用具サミット」と中国北京の清華大学での「日中養老健康国際会議」で講演させていただいた。素晴らしい機会を頂けたことに感謝している。北京の会議で驚いたのは、中国において老人とは60歳以上だということなので、61歳の私はもう老人ということになる。老人といえば一昨年まで、出張にて不在が多いため地域の皆様にはご迷惑を掛けながらも民生児童委員をさせて頂き、多くの老人の方々とイベントを通じて触れ合う機会を頂いた。イベントでは私はもっぱら余興担当ということで、いくつかのオリジナルネタを披露させて頂いたが、その中で特に「綾小路マシュマロ」という芸名で綾小路きみまろのスタイルと笑点のネタを少しだけパクリながら演じた「18歳と81歳物語」というネタに人気があった。これは一つの事を18歳と81歳という異なった視座で捉える面白さをネタにしている。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhZ5UJdMQ9hyf2gtpNXNimXhCi7Zt9BMirQDEEQY3rZi-pk9gKVRkjR2d8xqSJAgqe2fD_ZQ7KGbguEFoSagAm-u8ZVMenFOUyFcUqd4RsJHbCJ584-Ec9Ng-FatBFNZ7o5iOLovKJAUwlW/s1600/%25E7%2599%2592%25E3%2581%2597%25E3%2581%25AE%25E7%2594%259F%25E6%25B4%25BB32%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1200" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhZ5UJdMQ9hyf2gtpNXNimXhCi7Zt9BMirQDEEQY3rZi-pk9gKVRkjR2d8xqSJAgqe2fD_ZQ7KGbguEFoSagAm-u8ZVMenFOUyFcUqd4RsJHbCJ584-Ec9Ng-FatBFNZ7o5iOLovKJAUwlW/s320/%25E7%2599%2592%25E3%2581%2597%25E3%2581%25AE%25E7%2594%259F%25E6%25B4%25BB32%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.jpg" width="240" /></a>今月はこのネタを披露させていただき、笑っていただければ幸いに感じるところであります。<br />
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1.心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳<br />
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2.羽目を外すのが18歳、歯(入歯)を外すのが81歳<br />
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3.恋で胸を詰まらせるのが18歳、餅で喉を詰まらせるのが81歳<br />
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4.恋におぼれるのが18歳、風呂でおぼれるのが81歳 <br />
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5.ぐっすり眠って疲れが取れるのが18歳、ぐっすり眠っていると脈を取られるのが81歳 <br />
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6.好きなあの人との、あの夜のことを考えるのが18歳、あの世のことを考えるのが81歳<br />
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7.就職のための就活(就職活動)をするのが18歳、人生を終えるための終活をするのが81歳<br />
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8.自動車免許を取れるのが18歳、家族から自動車免許を取り上げられるのが81歳<br />
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9.道路を暴走するのが18歳、道路を逆走するのが81歳 <br />
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10.偏差値が気になるのが18歳、血統値が気になるのが81歳<br />
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11.受験戦争を戦ったのが18歳、アメリカと戦ったのが81歳<br />
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12.ユニクロを着て楽しむのが18歳、「のらくろ」を読んで楽しんだのが81歳<br />
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13.嵐というと松本潤を思いうのが18歳、鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出すのが81歳<br />
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14.東京オリンピックに出たいと思うのが18歳、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81歳<br />
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15.風邪をひいて病院に行くのが18歳、風邪が治って病院に行けるようになるのが81歳 <br />
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16.イヤイヤと言ってかわいいのが18歳、ヤイヤイ言って嫌われるのが81歳<br />
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17.言った事を忘れるのが18歳、言おうとした事を忘れるのが81歳<br />
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18.くしゃみをすると鼻水が出るのが18歳、くしゃみをするとおならが出るのが81歳 <br />
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19.まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていないのが81歳<br />
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20.自分探しの旅をしているのが18歳、旅に出て分からなくなり家族に探されてしまうのが81歳<br />
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ネタが終わってから化粧を落とし席に戻ると、隣のおばぁちゃんから「あんた何処に行っとったん?あんたがおらんうちに綾小路マシュマロのショーをやっとたんやで!面白かったで!あんたも観たら良かったのに、残念やなぁ!」とこれ以上ないお褒めの声を頂き、いい思い出となりました。そのおばあちゃんのお友達が「さっきのマシュマロさんは田中さんやで!」と説明頂いたのですが、「そんなことはない!」と頑固に締めくくって頂きました。<br />
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「老人を馬鹿にするな!」というお叱りを頂くこともなく、皆様には大らかな心でネタをお楽しみいただくことができたことに改めて感謝と御礼を申し上げる次第であります。</div>
田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-42900623240661104812018-04-24T16:22:00.000+09:002018-07-31T16:25:38.813+09:00教育と指導<div class="MsoNormal" style="line-height: 10.55pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-layout-grid-align: none; text-autospace: none; text-indent: 10.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif;">先月号で「道」についてお伝えさせて頂いたが、改めて武道・華道・茶道などの道はすべて道徳ということに繋がり、どの道も多岐にわたる視座に立った愛情の豊かな人間として幸せに生きることだと考えると、その道の歩み方を如何に伝えるかが重要になる。私は伝え方として「教育と指導」の二つの方法があると考えているのだが、教育と指導とはどのように異なるのであろうか。</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">まず教育とは教育を受ける側の人の視座に立ち、その人が将来的にその個性や特性を生かしながら幸せな人生が送れるように独立自尊の生き方を愛情をもって教え育むことだと思う。そして指導とは一つのゴールを目指し、そこに到達することができるまで導くことだと思うので、指導は教育に包括されるのだと考えている。この違いは抽象的で理解し難そうに思えるが、教育は一言でいうと絶対的な一つの答えが無く、教育を受ける人の数だけの答えがあり、指導は必ず答えが存在するものだと思う。さらに、教育は受ける人が主で指導は受ける人が従であるとも言える。指導において答えというのは規則・ルール・基準といったものであり、これらが無ければどこに向けて導くのかが不明確になる。指導について分かりやすい事例として柔道があり、軽微な違反行為を行うと手をくるくる回すジェスチャーと共に指導がなされる。要するに正々堂々と戦う道を外れた場合にのみ指導が行われるわけで、規則・ルールを外れないように導く行為を指導と言うのだと思う。特に柔道においては指導を「教育的指導」と表現していることから、指導をする時にも必ず教育という広く大きな視野を基本とした上で行われるところに柔道の奥深き魅力が存在するのだと思うのである。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">私は経験上、現在の日本の学校教育現場にはマニュアルやノウハウに則った指導者は多く存在しているが教育者が少ないと感じている。正解となる答えを導き出す方法を教えるだけでは指導者であり教育者とは言えない。指導の「導」と言う文字は道の下に「ちょっと」を意味する「寸」と言う字が配してあることからも指で指し示すことのできる一時的な案内を意味しているとも考えられるのではないだろうか。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">私たちの住む舞鶴の天台には、梅沢先生ご夫妻が中心となって多くの心ある先生方によって運営されている不登校の子供たちを対象とした「聖母の小さな学校」があり、ここでは答えありきの指導は全く無く、純粋な教育が存在するのみである。ここでの取り組みは日本の中で最も先進的であり、全国の不登校の子供のフリースクールの模範学校となっている。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">私は経営者の端くれとして従業員の一人ひとりと接する時、仕事を通じてそれぞれの個性と特性を活かした社会貢献活動が実行でき、従業員一人ひとりに幸せを実感してもらえるよう教育者という視座に立つことを肝に銘じ、決して如何なる場合も単なる指導者とならないよう努力を重ねたいと思うのである。</span></div>
田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-89640994854114246642018-03-26T14:39:00.000+09:002018-04-06T15:28:20.712+09:00お金の使い道と儲け方 先日、大阪府社会福祉協議会から講演の依頼があり、いつもながら朝方のレム睡眠のタイミングで話の構想をイメージしていた時、「道」というキーワードを強く感じた。福祉事業の実務における原点にはやはり「利他」の心が存在し、それを道徳教育として伝え承継されていると思う。道徳のように「道」の付く言葉といえば武道・華道・茶道など多くの言葉があるが、これらはどれもそれぞれ目指すべきものは同じであると思う。その目指すべき究極の目的とは作法を基本として心技を磨き極めるというプロセスを経て、多岐にわたる視座に立った愛情の豊かな人間として幸せに生きることだと考えると、これらの道はすべて道徳ということにもなると思う。<br />
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ここで、お金にも使い道という「道」があることに気づいた。金融機関に融資を申し込むと必ず「使い道は何ですか?」と訊ねられる。何に使うかによって融資するかしないかを判断するわけで、金融機関が正しい使い道だと判断しなければ融資は受けられない。「道」というものは常に正しさが問われる側面が存在するように思う。そしてすべての「道」にはその「道」を歩む主人公の人柄が表現されるとも思うのである。お金の使い方がきれいで上手な人の周りには多くの人が集い、心豊かな人間環境という幸せな境地が永続し、そこにはおのずと「道」が築かれていくものだと感じている。世の中にはお金持ちはたくさん存在するが、単なるお金持ちというだけではこの境地に至らないばかりか、そのお金持ちの人の人間環境は「金の切れ目が縁の切れ目」を当然とした考え方の人達の臨時集会のようなもので長続きすることはなく、不安と疑心暗鬼と争いが付いてまわっているように思う。<br />
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お金というものは、たくさんあると便利なように思いがちだが決してそうではない。使い道が明確でなければどんなにたくさんのお金に囲まれていても心からの真の幸せは実感できないと思う。所詮お金は道具であり、その道具の使い方次第で豊かな生き方もできれば、不幸にもなるものである。「足るを知る」という感謝の思いがあれば適正な道具というものがおのずと理解できるはずである。<br />
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お金の儲け方という表現は存在するが、儲け道という言葉は存在しない。ということは儲け方というものはそれだけで道になり得るだけの奥の深さがあるのではなく、幅の広い様々な方法が存在し、その時々の時代背景や価値観によって多様に変化するものであることから、儲け方を使い道のプロセスの一つとして解釈することで、その儲け方の正しさの尺度も理解できると思うのである。使い道のプロセスという視座に立って儲け方を考えてみると、儲けるという文字は信者と書くように嘘偽りのない誠実な心を基本として人と接しなければ信者は生まれないということをも気づいておかなければならないと思うのである。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8372205587841236688.post-55550028580736388882018-02-19T14:38:00.000+09:002018-04-06T15:28:49.458+09:00寝返りの正しい理解 私たちは睡眠中の体の動きについて単純に「寝返り」という表現をしますが、果たして寝返りとはどのような動きを指すのか、なかなか定義自体が難しいのです。敷き寝具(睡眠具)の業界においても非常に曖昧な解釈がなされており、各メーカーによって寝返りを定義する定規が不明確なのが現状です。その実例として、十数年前に女性の生理用ナプキンのテレビコマーシャルで「人は一晩に34回寝返りをする…」と表現し、さらにある敷き寝具メーカーでは「自社商品を使用すると一晩に10回の寝返りが2回に減る…」と表現しているのです。どちらも専門医の指導の下に表現しているにもかかわらず、34回と10回では3.4倍の違いがあるわけです。わかり易い表現をすれば1mの定規を30㎝というようなものなのです。このように寝返りというものは非常に曖昧なまま表現されており、一般的な解釈ですと仰臥(仰向け)から90度横に向くことを寝返りと考えている人が多いのが現状です。しかし、例えば介護の分野においては「仰臥の状態で仙骨部分に発生した血行障害を左右どちらかに向きを変えて血行障害を解除すること」を寝返りと定義しています。具体的に体の向きが何度傾けばいいのかではなく、自力で血流を確保できるだけの体の動きができればいいということです。現在の介護認定制度の問題点は、このようなところにも存在しており、曖昧な定規によって判定している限りは不公平が発生し、介護保険の要介護度にも大きな影響を及ぼすことになってしまっているのです。<br />
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さらに、新生児の成長過程における「寝返り」については介護分野とは定義が異なっており、「身体を自分で仰臥から側臥にしてなおかつ下側の肩を抜いて伏臥になること」と定義している場合が多いのです。これはまさしく仰臥(仰向け)から伏臥(うつ伏せ)に180度向きを変えることを意味しています。要するに同じ「寝返り」という言葉でも対象者によってその解釈は大きく異なるのです。<br />
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また寝返りを言葉として使われるのは「味方が背いて敵につくこと」であり、真反対の180度逆の立場に立つことであることを考えると、そもそもその語源は仰臥から伏臥になることであったといえます。とすると、睡眠中に仰臥から伏臥に180度向きを変えながら寝ている人はほんのわずかしかいないし、またその回数は極めて少ないことは明らかですから、現在の一般的な寝返りの解釈に誤りがあることを認めないわけにはいかないのです。<br />
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以上のことから、この「寝返り」という曖昧な言葉を定規として使用している限り、国際的な学会で通用し難いことの危険性を感じ、私は2005年の日本睡眠環境学会において、「寝返りの定義が曖昧である限り、今後は睡眠研究分野と敷き寝具(睡眠具)の業界に於いては『体動(体すべての動きであり、どんなに曖昧な寝返りも体動に包括される)』の回数を基本定規としてとらえることが大切である」と提案させていただきました。これにより、その後は体動の回数を定規として研究開発を進めていくことが多くなってきています。<br />
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私たちが日常、何の疑問も持たずに使っている言葉も、何を伝えることを目的としてこの言葉を使うようになったのかを知ることにより、正しい言葉の使い方が理解しやすくなることが多分にあると思うのです。田中啓介http://www.blogger.com/profile/00742882846726806466noreply@blogger.com