ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2019年6月28日金曜日

市長という生き方

「広報まいづる」5月号の「ドクターTのひとりごと」のコーナーで掲載されていた「選挙のポイント」と題した内容に疑問を感じた市民がどれくらいいらしたことだろうか?

京都新聞もこの内容を是とせず記事にした。それによると多々見市長の主張として、公約について「候補者が公約を実行するには、財源確保の問題、法令や条例との整合性、利害関係者との調整などが必要」とし、「予算編成権を持つ首長と、議会の過半数以上の議席を有する議員団とが、合意できる内容でなければならない」と述べ、少数議員団の公約の実現に対する否定的な考えや、公約を実現できる候補者選びを呼び掛ける表現について問題提起している。そこには同志社大総合政策科学研究科の新川達郎教授(公共政策学、地方自治論)の意見を掲載し「多数決に至るまで、少数意見をどれだけ尊重できるかが民主主義の質を決める。少数意見が多数になることもある。選挙の政策提案は、実現される前提でなければいけない―との主張は民主主義のメカニズムを否定することになる」と指摘している。さらに5月27日の京都新聞には、同日の記者会見で、市長の意見として「少数意見を排除するとは書いておらず、識者や市職員など議会の仕組みを知っている人は、内容の間違いを指摘できないと思う」と述べ、問題がないとの認識を示した、とあった。私はこの表現も看過できない、なぜなら識者や市職員等は市長に対してイエスマンであるかのような内容であり、「裸の王様」の童話を連想せずにはおれないばかりか、識者とはどういう人を指すのかその定義を明確にしていないこともこの発言は誤解を生むことになると思う。さらに文字通り解釈すれば、「識者や議会の仕組みを知っている市職員等でない人は内容を間違って解釈する可能性が大いにある」ということになり、識者と市職員等ではない「一般市民にはほとんど理解できない内容だ」ということを自ら表現したことにもなりかねない、これは市長としての発言としては大失態であると考えるが如何であろうか?

改めてここで私は識者ではない一市民として内容の間違いを指摘させて頂きたいと思う。少数意見を排除するとは書いていないとのことであるが、「予算編成権を持つ首長と、議会の過半数以上の議席を有する議員団とが、合意できる内容でなければならない」とすると、いくら素晴らしい内容でも市長と議員団が合意できなければだめ、というように解釈できる。ここで怖いのは市長と議員団の政治家としての目的意識である。何のために市長をまた議員をしているのか、私の経験から政治家の中には政治家というステータスと議員報酬を目的としている人物を少なからず見てきたが、そのような人物は保身を基本としており、素晴らしい少数意見に耳を傾ける取り組みをなかなかしない。今回の内容を私に表現させて頂くなら、「少数意見でもその内容の裏付けや計画の信ぴょう性を明確に示し、市民の役に立つ内容と判断したら必ず議会に進言することをお約束します」とするが、皆さんも同じお考えではないかと思う。ベンチャー会社の社長として紹介されることが多い私からすると、常に既得権益重視の多数派には認められないことが多い少数派であるベンチャービジネスは舞鶴では育たないということにもなると懸念する。現に日本褥瘡学会等に於ける弊社商品に対する対応はどんなに素晴らしい治験データ等の実績に基づいて説明しても、財力的に力を持つエアマットレスマーカー等の多数派の壁を崩すことはできない現状があり、現舞鶴市議会の構造と似ているように思う。

床ずれマットの業界ではライバルにあたるエアマットメーカーの研究者から「自分が寝たきりになったら貴社のマットレスを使いたい」と言って頂いたことがある。同じ研究者から頂いたこの本音は、これ以上ない誉め言葉であると受け止めさせて頂いた。本音と建前が交じり合う社会に於いて正しいことを多数決によって正しいと判断いただけない、ということを何度も体験している私としては市長の発言は是と出来ない。私は人間社会における正しいという定義は、お金という尺度を徹底的に排除し、純粋に相対する人の喜びを我が喜びと出来るところにのみ存在すると考えている。あくまでも識者でない私の意見なので市長や議員の心には響かないかもしれないが一市民として声を発せずにはおれないのである。

さらに京都新聞によると、市長は議会の中での少数意見については「住民や市民、国民に支持されれば増えてくる。どうしても意見を通したいなら、代案を出したり、論理的に多数派の意見を論破したりすれば住民もわかる。その努力をせず、文句ばっかり言っていても進まない」と指摘した、とある。確かに全く実現不可能な空想的な公約を掲げる候補者がいることは有権者として注意しておかなければならないと思うが、先に述べたようにいくら論理的に多数派の意見を論破しても、様々な隠れた既得権益等の価値観によって少数派の意見が認められないという現実を踏まえて、これを改革する勇気と実行力が市長には必要であると思う。

最後に京都新聞の記者の方がどのような態度で市長とやり取りをしたかは詳細が分からないので一概に京都新聞が全て正しいとは言えないが、少なくとも公人としての市長のこの度の対応からは人としての謙虚さが感じられないことは否定できないと感じている。また、この度のあのようなひとりごとの内容を書くに至った経緯が市議選、市長選、府議選の中で発せられた特定の政治家の言動に対してのものなら、余りにも近視眼的で大人げない対応と言わずにおれない。識者ではない一市民としてどうか今一度、市長の目的とは何かを多くの信託を頂いた市民の視座に立って、「市長という生き方」を見つめ直していただきたいと願うばかりである。
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