ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2018年1月22日月曜日

人の喜びを我が喜びとする


昨年末に私の同級生が星になった。新年早々の告別式には彼を偲ぶ多くの方々が式場に入りきらないくらい弔問いただいた。会社の経営者ならともかく、勤め人で現役でないにもかかわらず、あれだけ多くの方々がお越し頂いたのはひとえに彼の人柄の素晴らしさだと実感した。彼は大学卒業後、定年まで実直に勤め上げた勤め人の手本のような人で、定年退職をしてこれから第二の人生を楽しむ計画を立てようと考えていた矢先のがん宣告だった。闘病生活の期間がたったの半年余りという短いものであり、本人はもちろんだと思うが私にとってもとても残念であっけない時間だった。最期の日の前夜の見舞いの帰り際には、「また明日!」と私が言うと小さな声で「おぅ」といって手を挙げて答えてくれた。まさかあれが彼と私の最後のふれあいになろうとは思ってもいなかっただけに、命の儚さを改めて感じることとなった。

弔問頂いた皆さんが口々に「故人は自分のことより他人のことを優先する人だった」と話されていた。だからこそ彼を偲ぶ多くの方々にお越しいただくことができたのであり、この方々とのご縁こそが彼の素晴らしい財産だったと実感した。

彼は自分よりもまず他人を喜ばせることに喜びを感じる「利他の心」を無意識に実践できた人だったと思う。経営者はほとんど「お客さんの為に、いいものを安く販売します」と宣言し、政治家はほとんど「市民、国民の為に働きます」と宣言するが本当にそうだろうか?以前にも記したが古来より「人の為と書いて偽りと読む」と言われている。人の為と言う人は、人の為に行った行為が自分自身にとって何某かの儲けに繋がることを前提としていることはないだろうか。些細な行為にまでもその行為が自分にとって損か得かの金勘定が働いていることはないだろうか。純粋に他人を喜ばす行為を行い、そしてただ純粋にその他人が喜んでくれている姿を見て、純粋に「人のお役に立ててよかった」と安堵する心こそが「人の喜びを我が喜びとする」という「利他の心」であると思う。

具体的な事例を挙げると、親が子供に少し奮発して高価な玩具を買い与えた。一カ月もすると子供はその玩具に飽きてしまい遊ばなくなった。すると親は「なんで遊ばないの!あなたの為に買ったのよ!」と言うが、本当にそうだろうか?親は本当は子供の為に買ったのではなく、自分のために買ったことに気づいていない。なぜなら高価な玩具を嬉々として遊んでいる子供の姿を見て、純粋に「よかった!」と安堵する自分を実感し、自分自身が喜ぶために買ったのだと思う。要するにどんな行為も全て自分自身が喜びを実感するために行う自分のためのものであり、決して人の為ということはないということである。

私も彼のように意識をせずとも「利他の心」が実践できるよう彼を手本として人生を歩みたいと思う。

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