ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2019年2月22日金曜日

心とは?信じるとは?恋とは?愛とは?

私たちは心のあり方次第で一つの出来事をプラスにもマイナスにも理解することができます。表現を変えると何事もポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかという心のあり方によって、人生を幸せなものにするか否かということに繋がると思うのです。
では心はどの場所にあるのか?と皆さんも考えたことがあると思います。例えば心が痛む・心あたたまる、よく似た表現で胸が痛む・胸が熱くなるという表現を考えると心は胸にあると考えていいのではないかと思うのです。物事の理解は頭(脳)で行うとしても、心が頭にあるとは思えません。
ここで心のあり方について考えてみますと心豊かな人というのは愛に満ちた人と同じ意味として理解できると思います。テレビのCMのフレーズに「信じられる愛はあるんか?」というのがありますが信じられる愛とはどういうことなのか?信じるとは何か?を考えてみますと人や物に対して、ある部分やある事柄について予測し、待つこと(期待)であり、期待通りの結果が出た時には、こうなると信じていた、信じていて良かった、という答えになり、期待したより悪い結果が出た時は信じていたのに・・・残念!とか裏切られた、という表現をします。要するに信じるということは「自分の価値観で勝手に相手に期待をして自分の予測や欲求を満たそうとすること」なのではないかと思うのです。
「信じる」という言葉を使った時点で、全てではなく、信じている部分と信じていない部分があるということになり、全てを受け入れるということではないということを意味していると思うのです。
では愛とは何か?それは対象となるものを全てそのまま、ありのままを受け入れたうえでの対応行為のことであり、その行為に対し、見返りといった欲が存在しない心の状態と言えるのではないでしょうか。
ここで知っているようで知らない「愛と恋」についてどこが違うのかと考えてみますと、まず心の場所が違っています。恋という字は心が下にあり、我欲を満たしたいという思いである下心が存在した状態であると思うのです。例えば、人を好きになるとほとんどの場合、その相手にも自分のことを好きになって欲しいという見返りを求める下心といえる欲求が同居しています。私はあなたのことが好きです、でも貴方が私のことを好きかどうかは問いません、という心の状態は恋よりも愛に近い状態だと思うのです。
愛は下心ではなく心が文字の中心にあります。同じく心が中心にある文字として慶(個人的なよろこびではなく公なよろこび)、憂(亡くなった人を偲び悲しんでいる人の様子であり、その人に寄り添う状態が優しい)があり、どれも個人の欲に関わる下心的な意味を含んでいません。
歴史から愛を考えると弘法大師が仏教とともに伝えた愛染明王というのが日本に愛という文字が定着した始まりともいわれています。さらに1549年フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた時にはLOVEを「ご大切」と表現し、そののち明治になってから愛と訳したと言われています。単に大切というのではなく「ご大切」と表現することによって当時の日本人の人や物を純粋に大切にする心を理解した、まさに愛の本質を表現するのに相応しい言葉だと思うのです。私はあなたを愛しています、というその真意は「私はあなたをご大切に思い、接してまいります」ということになります。
私自身「ご大切」という言葉に出会えたことで、愛について少し理解を進めることができたように思うのです。
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