ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2019年12月20日金曜日

舞鶴市民より世界の人々が注視する舞鶴

来年から本格的に始まる「パリ協定」を前に小泉進次郎環境相が参加した地球温暖化対策を議論する会議のCOP25で、日本が「化石賞」なるものを受賞したことが話題となっている。「化石賞」(Fossil Award)とは、COPや国連気候変動交渉会議の会期中、温暖化対策に対して積極的でない国に対して皮肉を込めて授与される賞である。この会期中会場周辺では日本に対する抗議デモが行われた。抗議の内容は「化石そのものである石炭を使う火力発電を中止せよ!」という強いメッセージである。要するに世界中の地球温暖化を心配する人々から日本はかなり危険な国として捉えられているということである。

そんな中、石炭火力発電所を有する舞鶴市が誘致活動を進め土地の用途変更も行い、日本最大規模のパーム油火力発電所を舞鶴に建設するという。日本最大ということは世界でも最大規模となり、ここで消費されるパーム油を生産するためにインドネシアやマレーシアでは自然破壊が加速している。試算によると舞鶴のパーム油火力発電所でのパーム油の年間使用量を賄うには舞鶴市の総面積の80%強のアブラヤシ農園が必要になるということである。同時に子どもたちが労働者として働かされているという現状もある。さらにパーム油はSDGsの概念に準じた継続供給が可能な燃料とはいえないという現状を危惧し(公財)世界自然保護基金ジャパンが舞鶴市などに発電所事業計画の見直し等を求める要望書を提出している。

福知山市でも大きな問題となっているパーム油火力発電所の40倍の規模ということは、西舞鶴の街中に臭気と振動音の発生を心配しなければならないと考えるのが妥当であると思う。特に一年のうちで最も多く北北東の風が吹く舞鶴であるから、風下に位置する福井小学校への影響は計り知れないのである。

私はバイオマス発電というのは里山の間伐材や廃棄用の木材を燃料として活用する火力発電だと理解しているので、新たに自然林を伐採開墾してパーム油の原料となるアブラヤシを栽培するということは本来のバイオマスという概念から外れていると思うのである。

「石炭火力発電とパーム油火力発電のまち舞鶴!すぐ隣には高浜原発もございます」というPRをしたらまず舞鶴には住みたくないと世界中の人々は思うだろう。特に地球温暖化阻止と自然環境保護を考える人々にとって舞鶴は環境破壊推進のまちとして記憶されることになると思う。そして悪化の一途をたどる医療と教育環境を重ねてみると舞鶴市の人口が8万人を割り込んだという事実から「住んでよし」の舞鶴ではないことをもっと大きな問題として真摯に捉えなければならないと思う。

先日の市議会で「パーム油火力発電所 建設反対の幟を立てて住民の不安を煽っている者がいる」さらに「市の策定した計画には協力すべし」という発言をした議員がいるがこれは大きな間違いで、私は先日開催された喜多自治区の集会に参加し住民の総意によって幟が立てられていることを確認した。市議会議員はもっと現地に足を運び地元住民の皆さんとしっかりとしたコミュニケーションをもっていただきたい。住民に相談なく策定した建設計画の実行ありきではなく、純粋に地元の人々の少数の意見に耳を傾けなければ正に「ドクターTのひとりごと」に記された市長の姿勢が議会運営そのものとなっていると考えてしまうのは私だけであろうか。

世界中から注視されている今こそ売電ビジネスを是としたお金の尺度を最優先にするのではなく、住人の命と道徳心を基本としたまちづくりを世界に示す好機であると捉え、子供や孫達に素晴らしいまち舞鶴を残さなければならないと思っている。

今回でこの連載も50回という節目となった。今まで以上に気持ちを新たにしっかりと歩を進めたいと思う。幕末の国学者である平田篤胤が「正しきによりて滅ぶる国あれば滅びても良し 断じて滅びず」という言葉を残している。結果を心配することよりも、正しいと思うことを貫いて生きれば必ず良い結果がついてくる、という信念をもって生きる大切さを伝えた言葉だと私は解釈している。正しさの基準は様々であると思うが、「人の幸せを自分の幸せと考える」という生き方には正しさの基準の王道があると思うのである。私自身、日々自戒の念をもって少しでも「正しき」が実践できるよう努力を重ねたい。
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2019年11月29日金曜日

世界の最新医療と舞鶴

先日、東京ビッグサイトで「がん医療にイノベーションを起こせ!立ち止まるな日本‼」をテーマに『第5回がん撲滅サミット』が開催され、弊社の株主であった原丈人氏が大会会長であったことからお声掛けを頂き、ささやかながらスポンサーとして参加させて頂いた。安倍総理をはじめ閣僚や小池都知事そして世界医師会の横倉会長からも激励のメッセージが伝えられた。

このサミットの内容は驚きと感動の医療の宝箱のようなものと表現できる。まず驚いたのは、日本のがん治療の最前線にいる13名のゴッドハンド(神のような医療の腕を持つ医師)によって脳・胃・肝臓・膵臓・腎臓・大腸・卵巣・前立腺などのそれぞれの得意分野において、アメリカをはじめとする世界の最新のがん治療の現状が示され、がんはもう克服することのできる病であることが実感できたことである。特にがん細胞のみで増えることができるウイルスを感染させ、そのウイルスでがん細胞のみを破壊するウイルス療法は画期的であり、すべての固形がんの根絶治療につながると期待されているのである。しかしながら現時点での日本の医療保険制度の下ではこれら最新の療法を実施することができないという残念な実情も報告されたが、保険外の自由診療を選択すると高額になるけれども、かなりな確率で治療が期待できるということである。これらの最新療法を保険診療の下で利用できるようになれば、日本人にとってがんは怖い病気ではなくなる日が来るのである。

ひとりの医師が「大将は患者さんであり、我々医者は参謀です。だから我々医者はどんな場合でも大将である患者さんの意思を尊重し、最善の治療方法が選択できるよう世界中の様々な方法を提案しそれを実践するのです」と発言され、この発言に対しすべての医師が大きく頷かれたのを見た時、これからの日本の医療は患者に寄り添い、力強く進化していくであろうことを強く実感した。

さらに13名すべての医師から、「現在の日本においてがんを撲滅するには医療制度改革が急務である」との提言がなされ、アメリカでも山中伸弥教授を招請し同じサミットを開催された実績と内閣府本府参与である原氏に対して制度改革を進めるための力強い活躍に大きな期待が寄せられた。閣僚は内閣改造の度に変わるが、原氏は長期的に総理に様々な提言ができるポジションにあることも13名の医師が期待をされる大きな理由であると解釈した。

さらにこのサミットの素晴らしいところは参加が無料であり、プログラムのメインイベントとして会場の参加者からステージに並んだ13名の医師たちに直接セカンドオピニオンを求めることができるということである。例えば参加者から「現在、肝臓がんで〇〇という状態であり△△の治療を受けているが今後の最新治療方法は何が適切かを教えて欲しい」という質問に対して、ナビゲーターが瞬時に質問者の現状を理解し、その回答者として最適な肝臓・重粒子線・ウイルス療法の専門医を選定し、それぞれが即答するという世界的に見てもこのような取り組みは例のない画期的な内容である。このナビゲーターこそがこのサミットの提唱者であり代表顧問である中見利男氏である。中見氏は日本を代表するジャーナリストであり作家でもある。中見氏が弊社にお越し頂いた折にお聞きしたのであるが、「私は舞鶴というこの地にこころ惹かれ何度も訪れ、この舞鶴を私のこころの故郷であると感じているのです」と表現頂いた。中見氏の著書に「天海の暗号 絶体絶命作戦」というのがあり、そこには細川幽斎が田辺城に隠し持っていた十種神宝にまつわる物語が記されている。私は原氏のご紹介で頂いた中見氏とのご縁には必然的なものを感じており、この必然的なご縁をより大きく育てることにより、10月29日に厚労省により発表された「再編統合を議論すべき424病院」に舞鶴赤十字病院が入ってしまったことを含め、劣悪な現在の舞鶴の医療体制の改革に一市民として一石を投じることを願って努力を重ねたいと考えている。

舞鶴市の大将は永遠に市民であり、参謀として市長や行政が存在するということを先月のコラムに引き続き、この13名の名医のメッセージをお借りしてお伝えさせて頂きたい。



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2019年10月25日金曜日

「怒る」と「叱る」

10月15日の「潮騒」の投稿を拝読して、家庭内の道徳教育のしっかりとした素敵なお母さんの優しさに触れた思いがした。それはお母さんとお子さんの会話のやり取りで、お母さんがあくまでも子供を一人の人間として、しっかりと向き合って教育されている様子が目に浮かぶ内容で、小学生の子どもたちの井戸端会議にドクターT(市長)の言動が問題になったことが発端である。子どもとしても市長の言動が市民に誤解を与えたにもかかわらず、謝らないのは間違っているのに、なぜ市長は謝らないのか小学生としては道徳的に考えても理解ができない。大人でも理解できないのだから当然のことであるが、お母さんとしては子どもに説明ができないので、「子どもの手本となる対応として誤解であるなら謝罪をして、子どもが尊敬できる市長でいてください」と結ばれている。

そのお母さんがお子さんの問いかけに「市長の言動に対して怒っている人がいるみたいよ」と説明されている。ここで、私はいつも心がけていることとして「怒る」と「叱る」を分けて考え表現するようにしている。「怒るは感情」「叱るは愛情」と表現されるが、何が違うのかということである。「怒る」の語源は「起こる」であり、起きると同意の立つということと理解すると腹が立つということに繋がる。腹が立つというのは単なる感情表現であるが、叱るは間違いを正し、改善策を共に考え、示すことによって間違いを解決する行為であると考えている。だから「怒る」にはないが「叱る」には愛情があり、教育という概念も存在すると思う。

私は今まで市長に対してこの市民新聞を通じ、ほとんどの市民に誤解を招いたことへの反省と謝罪を求め、対話によって共により良い舞鶴を創るための方策を導き出しましょう!と呼びかけている。だから私の言動は「叱る」という行為であると理解しており、腹を立てて文句を言う「怒る」行為で終わりにしたくないと考えている。教育とは永い時間を要するものであるから根気強く叱り続けることが必要であると思うのである。

ここで異なる視座に立って見ると「怒る」は年齢などの上下関係に関わり無く発する行為であるが「叱る」というのは年上が年下に、先生が生徒に、また上司が部下に対して等、上下関係が存在する中でなされる行為であるとも言われる。NHKの人気番組に「チコちゃんに叱られる」というのがあるが、チコちゃんの質問に対して回答者が間違った答えをすると「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」というフレーズの後に必ず理由の説明と共に正しく理解することのできる解決策が示されていて、まさに「叱られる」ということになるのである。チコちゃんは永遠に5歳だが物知りな先生の立場であり、回答者や視聴者はチコちゃんより年上であるが生徒の立場となるのでより素直に叱られやすくなる構図ができていると思う。すると市長を叱っている一市民の私が市長の上なのかということになる。ここで行政運営の組織図を考えてみると皆さんは図Aを思い浮かべられることと思う。しかし私の会社は図Bの考え方で業務を進めている。本来、行政機関というのは究極のサービス業であると称されることからもお客様である市民が主人公であり、組織図では一番上でなければならないと思うのである。同じ様な事例として医療の現場においても主人公は患者であり医師ではない、患者がいなければ医師の存在は必要ないのである。

社長や市長も組織図では最も下に存在して、関わる人たちを支えるという心構えが大切であると考えている。だから私はお客様や従業員から叱られることがある。

図Bの視座に立つと、真実を正しく見つめ、それを表現する勇気のある「潮騒」のお母さんのように市長を叱って頂く市民の存在は、道徳的的にも行政運営の組織図的に考えても正しいことであると思うのである。あとは叱られる方にそれを受け止める素直さと勇気があるかが問われるということになると思うが如何であろうか。
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2019年9月27日金曜日

本音と建前

22日に開催された「今の市政にひとこと言いたい 市民のつどい」に参加させて頂いた。約100名の市民によって、今の舞鶴市をより良くすることを願って意見が述べられた。中には京都府内の市政の議会傍聴を長年続けておられる方が長岡京市から意見を述べに来られていた。その方によると他市に比べると舞鶴市はマシなほうだとの発言がなされた。ある市においては少数派の意見自体が議会で述べにくい状態にあるが舞鶴市は少数派でも意見を述べる機会があるからマシだというのである。マシだから現状のままでいいのではなく、府下の各市の手本となる議会運営を目指すべきだと私は思う。

また、出席いただいた中村弁護士によると、市長のコラムに対して「少数派を含めた多くの意見を聞いて熟考し議論を重ねた末に、それでも意見がまとまらない時に多数決という手段で物事を決定するのが民主主義であって、ほとんど議論をせず多数派の意見を通すために多数決を用いるのは間違っている」との見解も示された。

市議会答弁に於いて、市長は「識者等であれば私の間違いは指摘できない」と発言されているが、今日現在までに市長派与党の市議会議員や市内の識者といえる著名な経営者の方々から、「本音を言うと市長のコラムの内容は確かに間違っていると思っている」というお声を多く頂いている。しかし直接声に出して公に意思表示されることはなく、建前優先の対応をなされており、これが大人の世界というのなら悲しいことであると思ってしまうが、私自身も家具の小売店を営んでいた時なら、お客様のほとんどが舞鶴の方々なので、様々な考え方のお客様がいらっしゃることを考えると、今の私のようにハッキリと本音を語らないようにしていたかもしれない。なぜならそこには人として大切な「利他」という尺度よりも、我利という金儲けの尺度を優先していたからなのだと思う。

さらに、市内の医療従事者の方の意見では、舞鶴医療センターの医師の減少に伴い医療科目が減り、この数年間で550床のベッド数が半減したとのことであった。また数年前なら助かっていた患者が専門医の不在により適切な医療対応ができないために亡くなるケースが多いこと、さらには緊急で重篤な患者は舞鶴では対応できないためドクターヘリで豊岡に搬送されている現状が語られた。「医師である私が市長になれば現在の医療体制を改善する」と力説されていたにもかかわらず、改善どころか悪化の一途をたどっている医療体制の現状を考えると、市長のコラムの最後にある「公約を実現できる候補者を選んでいただきたい」という一文に市長自身はどうなのかと、この8年余りの公約不実現の実績を問いたい思いである。舞鶴の街中には8年前から「赤ひげ市政を正す」の看板があるが、今日現在「市民で赤ひげを正さなければならない」現状があるように思う。

市民の尊い命が失われているという報告を聞いて、改めて市長の責任の重さを考えた。

市長自身、昨年4月大相撲舞鶴場所の土俵の上で倒れた時、女人禁制の土俵に上がった勇気ある女性看護師による心臓マッサージによって一命をとりとめた。この時なされた「女性は土俵から降りてください」という場内アナウンスに日本全国から非難が殺到した。さらにマスコミは「相撲界のしきたりに縛られ、社会の現実に対応できていないためだ」と相撲協会を批判した。勧進元(発起人)の四方八洲男氏は「人命が大事か、しきたりが大事かというと、人命が重い」と発言されている。また伝統を重んじる相撲協会でさえも「どんな時も、しきたりより人命が第一」と謝罪のコメントを残している。

舞鶴市議会の暗黙のしきたりを重んじ、少数派の意見を排除するような身勝手な答弁を市長が繰り返している限り、いつまでも尊い人命が失われ続けることになると考えるのは、考え過ぎなのだろうか?

市長の公約にある「住んでよし」の舞鶴を実現するためにも、市長派与党を含む全ての市議会議員をはじめ市内の識者や著名な経営者の方々にも、私達一市民と共に本音で市長に意見を述べて頂きたいと願うばかりである。そこには釈迦が唱えた「利他」の心を実践する勇気が必要になるのだが…。
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2019年8月23日金曜日

マハトマ・ガンジーの寛容の心

多々見市長のオフィシャルサイトにある、私の決意には「市民がまちに誇りを持ち、行政と一緒に元気なまちづくりを頑張ろうと思ってもらえる土台、企業に投資や連携をしてまちづくりを手伝ってもらうことのできる土台ができ、持続発展可能なまちづくりの基盤が整い…人と人とのつながりを大切にする中で…」とありますが、一市民としてこの内容に疑問を感じるだけでなく、不安を感じてしまうのは私だけでしょうか。なぜなら舞鶴市広報誌5月号の「ドクターTのひとりごと」の内容と議会答弁からは「人と人とのつながりを大切にする」という強い思いが伝わってこないからです。あくまでも人と人とのつながりとは、一人ひとりのつながりが基本であり、そこには一人の小さな意見にも耳を傾けるという寛容という心の広さと優しさがあってこそ成り立つものであり、多数を占める集団という単位でのつながりではないと思うからです。

市長の公約に「住んでよし、働いてよし、訪れてよし」とありますが、市長が来賓等で出席される会合等において必ずクルーズ船の来港数や交流人口と経済人口の増加を話題にされますが医療環境に関しての話はほとんど聞けません。「訪れてよし」が優先されてしまい、市民が主人公である「住んでよし」という最も大切なことが忘れ去られていると思うのは私だけでしょうか。市長の顔色を気にし、忖度しながらの形式的な市民対話ではなく、より良いまちづくりを目指す純粋な一市民との対話なくして「住んでよし」の舞鶴が実現できるとはとても思えないのです。市長から見て、自分にとって耳の痛い考え方や意見を排除し、市民へ誤解を与えたことの反省もされない現状では正しい市政運営は成り立たないと思うのです。日を増すごとに、議会答弁において市長が自分の言動に対して「市職員など議会の仕組みを知っている人は、内容の間違いを指摘できないと思う」と断言された市職員の方々からも複数の市長の間違いや問題点が私のところに届いています。残念ながらこれら心ある市職員の方々の意見が市長の耳に届かないのは、届かない仕組みづくりと対応を市役所内でなされているからではないでしょうか。さらに先日驚いたことが発生しました、市長が来賓として出席されたある会合の席で「私は舞鶴の経営者の中でパシフィックウエーブの田中啓介を恨んでいる」とお話しされたとのことが私の耳に届きました。録音されていたわけでは無いので一字一句が発言通りではないかもしれませんが、私に対してよほど腹を立てていらっしゃることは理解できました。先月のこのコラムでも書きましたがFMまいづるの私の番組「寝ても眠れない日本人へ」に対する検閲的な行為も含めて、市長の言動に一市民として恥ずかしさと悲しさを感じてしまいます。

学生のころからの友人の兄であり弊社の株主でもあった原丈人氏が現在、内閣府本府参与という内閣総理大臣のブレーンというポジションで活躍されているのですが、原氏は決して総理のイエスマンではなく、常に地球規模の視野で提言をされており、時には総理にとって耳の痛い意見もあるはずですが、総理はその意見に耳を傾けるだけの心の広さを持っておられるということだと理解しています。舞鶴市にもこのような機関を設置するくらいの心の広さを市長に持っていただけたらと思います。それには市議会議員の皆さんにも同じく、公平で公正な寛容という心の広さと優しさを大切にした行動をお願いしたいと思うのです。特に公明党議員の方々には党の公約にある「小さな声を、聴く力」を実践いただきたいと願っています。議員という前に心ある一人の人間として、党利党略や自己の保身が優先されるような議会運営を正す勇気をもって行動して頂きたいと思うのです。約9年前の舞鶴市議会を見た時のことを思い起こすのですが、当時の斎藤市長に対する罵声やヤジで埋め尽くされたかのような、議会の目的を逸脱した酷い有様は市民として悲しさを感じるものでした。広義に解釈すると現在の舞鶴市においても少数意見に対して同じような行為が進行しているように思うのですが市民の皆様は如何お考えでしょうか。

「市長の生き方」と題して6月と7月に寄稿したこのコラムについて、先日家族から「いつまでこんなことをやるの?やったところで何も変わらないと思うし、何もお父さんがやらなくてもいいんじゃないの?」と訊かれました。

この言葉の中で「やったところで何も変わらない」というフレーズに今の舞鶴を映し出していると感じた次第です。より良いまちづくりを目指そうとしても小さな一人の力ではどうしようもないという諦めの思いを若者が抱いている限り、舞鶴の未来に希望を見出すことはできないと思うのです。改めて政治というものの原点には小さな意見を受け止める寛容の心が不可欠であると強く感じる出来事でした。

8月6日の広島平和記念式典で広島の松井市長は「平和で持続可能な世界を実現するためには、ガンジーが言及する寛容の心を持つことが必要」と話されました。ご存知の通りガンジーはインドの独立と民主化を進めるにあたり、立場や考え方の異なる人々を「寛容」の心で受け止めることが重要であると唱えた人物です。

未来に希望の持てる舞鶴のまちづくりを考えて頂く機会にしていただきたいと願い、ガンジーの残した名言をご紹介させて頂きます。

〇重要なのは行為そのものであって結果ではありません。行為が実を結ぶかどうかは、自分でどうにかできるものではなく生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのです。

〇たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです。

〇良心の問題に関しては、多数決の法則は適用されないのです。

〇握り拳と握手はできないのです。

〇過去は私たちのものだが、私たちは過去のものではない。私たちは現在を生き、未来をつくる。たとえその未来に私たちがいなくても、そこには子供たちがいるのだから。

私は多々見市長に握り拳を開いていただき、共により良い舞鶴を作り上げて頂くことを願っています。
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2019年6月28日金曜日

市長という生き方

「広報まいづる」5月号の「ドクターTのひとりごと」のコーナーで掲載されていた「選挙のポイント」と題した内容に疑問を感じた市民がどれくらいいらしたことだろうか?

京都新聞もこの内容を是とせず記事にした。それによると多々見市長の主張として、公約について「候補者が公約を実行するには、財源確保の問題、法令や条例との整合性、利害関係者との調整などが必要」とし、「予算編成権を持つ首長と、議会の過半数以上の議席を有する議員団とが、合意できる内容でなければならない」と述べ、少数議員団の公約の実現に対する否定的な考えや、公約を実現できる候補者選びを呼び掛ける表現について問題提起している。そこには同志社大総合政策科学研究科の新川達郎教授(公共政策学、地方自治論)の意見を掲載し「多数決に至るまで、少数意見をどれだけ尊重できるかが民主主義の質を決める。少数意見が多数になることもある。選挙の政策提案は、実現される前提でなければいけない―との主張は民主主義のメカニズムを否定することになる」と指摘している。さらに5月27日の京都新聞には、同日の記者会見で、市長の意見として「少数意見を排除するとは書いておらず、識者や市職員など議会の仕組みを知っている人は、内容の間違いを指摘できないと思う」と述べ、問題がないとの認識を示した、とあった。私はこの表現も看過できない、なぜなら識者や市職員等は市長に対してイエスマンであるかのような内容であり、「裸の王様」の童話を連想せずにはおれないばかりか、識者とはどういう人を指すのかその定義を明確にしていないこともこの発言は誤解を生むことになると思う。さらに文字通り解釈すれば、「識者や議会の仕組みを知っている市職員等でない人は内容を間違って解釈する可能性が大いにある」ということになり、識者と市職員等ではない「一般市民にはほとんど理解できない内容だ」ということを自ら表現したことにもなりかねない、これは市長としての発言としては大失態であると考えるが如何であろうか?

改めてここで私は識者ではない一市民として内容の間違いを指摘させて頂きたいと思う。少数意見を排除するとは書いていないとのことであるが、「予算編成権を持つ首長と、議会の過半数以上の議席を有する議員団とが、合意できる内容でなければならない」とすると、いくら素晴らしい内容でも市長と議員団が合意できなければだめ、というように解釈できる。ここで怖いのは市長と議員団の政治家としての目的意識である。何のために市長をまた議員をしているのか、私の経験から政治家の中には政治家というステータスと議員報酬を目的としている人物を少なからず見てきたが、そのような人物は保身を基本としており、素晴らしい少数意見に耳を傾ける取り組みをなかなかしない。今回の内容を私に表現させて頂くなら、「少数意見でもその内容の裏付けや計画の信ぴょう性を明確に示し、市民の役に立つ内容と判断したら必ず議会に進言することをお約束します」とするが、皆さんも同じお考えではないかと思う。ベンチャー会社の社長として紹介されることが多い私からすると、常に既得権益重視の多数派には認められないことが多い少数派であるベンチャービジネスは舞鶴では育たないということにもなると懸念する。現に日本褥瘡学会等に於ける弊社商品に対する対応はどんなに素晴らしい治験データ等の実績に基づいて説明しても、財力的に力を持つエアマットレスマーカー等の多数派の壁を崩すことはできない現状があり、現舞鶴市議会の構造と似ているように思う。

床ずれマットの業界ではライバルにあたるエアマットメーカーの研究者から「自分が寝たきりになったら貴社のマットレスを使いたい」と言って頂いたことがある。同じ研究者から頂いたこの本音は、これ以上ない誉め言葉であると受け止めさせて頂いた。本音と建前が交じり合う社会に於いて正しいことを多数決によって正しいと判断いただけない、ということを何度も体験している私としては市長の発言は是と出来ない。私は人間社会における正しいという定義は、お金という尺度を徹底的に排除し、純粋に相対する人の喜びを我が喜びと出来るところにのみ存在すると考えている。あくまでも識者でない私の意見なので市長や議員の心には響かないかもしれないが一市民として声を発せずにはおれないのである。

さらに京都新聞によると、市長は議会の中での少数意見については「住民や市民、国民に支持されれば増えてくる。どうしても意見を通したいなら、代案を出したり、論理的に多数派の意見を論破したりすれば住民もわかる。その努力をせず、文句ばっかり言っていても進まない」と指摘した、とある。確かに全く実現不可能な空想的な公約を掲げる候補者がいることは有権者として注意しておかなければならないと思うが、先に述べたようにいくら論理的に多数派の意見を論破しても、様々な隠れた既得権益等の価値観によって少数派の意見が認められないという現実を踏まえて、これを改革する勇気と実行力が市長には必要であると思う。

最後に京都新聞の記者の方がどのような態度で市長とやり取りをしたかは詳細が分からないので一概に京都新聞が全て正しいとは言えないが、少なくとも公人としての市長のこの度の対応からは人としての謙虚さが感じられないことは否定できないと感じている。また、この度のあのようなひとりごとの内容を書くに至った経緯が市議選、市長選、府議選の中で発せられた特定の政治家の言動に対してのものなら、余りにも近視眼的で大人げない対応と言わずにおれない。識者ではない一市民としてどうか今一度、市長の目的とは何かを多くの信託を頂いた市民の視座に立って、「市長という生き方」を見つめ直していただきたいと願うばかりである。
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2019年5月24日金曜日

マナーとエチケット

仕事の関係で海外に行く機会が多くなり、どの国でも飛行機を降りた瞬間にそれぞれの国の特有な匂いがあると感じている。その匂いは食文化を中心に生活に関わるものではないかと思う。さらに国特有の風習や文化があり、私は今週マレーシアでラマダンという断食の期間にもかかわらず盛大な夕食パーティに参加させて頂いた。水も飲んではいけない断食の時間は日の出から日の入りまでであり、日没後の食事は許されていることを知った。それだけに夕食は豪華な場合が多いとのことであった。私はイスラム教の信者にとってこのラマダンによって体のデトックス(解毒)効果を促し健康管理に大きな役割を果たしているようにも感じた。宗教というものはそれぞれの地域の気候・環境・風土において最適な環境適応の肉体的精神的な生活術と表現することもできると思う。

また国ごとにある特有な風習として、タイに行くと挨拶時はもちろん様々な場面で両手を合わせて対応して頂ける。この自然でささやかな仕草にタイという国に対して訪れた人達は親近感と居心地の良さを実感することになる。

さらに国ごとに特有なマナーやエチケットというものが存在することも実感させられることがある。良いマナーばかりではないこともあり、二週間前に訪れた中国は広州でのこと、私が地下鉄に乗ろうとした時、扉の前に多くの人が立ちふさがり降りることができない。押しのけて降りるしかなく、そうすると私を睨みつけてくる。降りなければ乗れないことは理解できているはずだがマナーが全く無いと言わざるを得ない。さらにホテルでの朝食の時のこと、2歳くらいの子供が窓の外を見たいとぐずった、すると母親は食事しているテーブルの上に靴を履いたままの子供を立たせて外を見せながらスプーンで料理を口に運んでいた。さすがに隣の席だけに看過できず注意しようとした時、ホテルの担当者が注意をしたがマナーを論じる以前の問題であると思う。

私が中国を訪れはじめた1985年頃はとてもシャイで優しさに溢れた人ばかりだったと記憶しているだけに今の中国は残念でならない。

しかし中国にも素晴らしいレストランがある。朝食時に嫌な思いをした日の夕食に火鍋レストランチェーン「ハイディーラオ(海底撈)」に行った。テーブルまでの案内からメガネ拭き紙のサービス、カバンや上着を布袋で覆ってくれ、注文時も親切な説明をしてくれ、食事中何度も必要なものはないかと尋ねてくれる。食事後には日本から来てくれたということでお土産も準備してくれていた。食事を提供する側としてのマナーとエチケットのバランスが整いとても気持ちよく食事ができた。

一日のうちに最悪の中国と最高の中国を体験した感がある。このレストランは世界に店舗展開しており、創業者の施永宏氏の社員教育の素晴らしさが世界的にも注目を集めており、昨年香港証券取引所でIPOを果たし、47歳の共同創業者の張勇夫妻の合計資産額は約8900億円に達する世界企業である。

マナーとは「社会的に望ましい行動や作法」という意味があり「電車内のマナー」「タバコのマナー」「食事のマナー」などがあり、公共の場など多くの人たちが集う時の立ち居振る舞いのあり方において使われ、一方エチケットには「特定の相手を不快にさせない気配り」といった意味があり「エチケットブラシ」「エチケット袋」「エチケットスプレー」のように使われる。

エチケットの語源を調べてみるとフランスの宮廷での行動を示した通用札とのことなので、それぞれの宮廷に独自のエチケットが存在する。ゴルフでも各ゴルフ場に独自のエチケットを策定することがあることからもエチケット委員会が存在する。エチケット委員会があってもマナー委員会がないのは、マナーのない人はゴルフをする資格がないということだと思う。

マナーとエチケットをバランスよく実行することで自分自身はもちろん周りの人も幸せな気分になることができると思うのである。
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2019年4月19日金曜日

復興オリンピックという名の違和感

4月11日、世界貿易機関(WTO)の上級委員会は、韓国による福島など8県産の水産物輸入禁止措置を不当とした「一審」の紛争処理小委員会(パネル)の判断を破棄した。日本は逆転敗訴となった。上級委は、パネルの判断はWTOの検疫関連協定の解釈に誤りがあると指摘。韓国の措置について「必要以上に貿易制限的」としたり、日本を不公正に差別したりしたものとはいえないとした。また、韓国政府が消費者保護のためにどのような措置を取れば適切かは判断できないとし、食品で許容できる放射線レベルなど安全性の問題でも見解を示さないとした。

私はこの判断を受けて急遽14日に安倍首相は福島第一原発に飛んだと考えている。

多くの日本人がWTOの判断を否定的に捉え韓国を非難した。私も心情的に日本人ならこれらの反応は正しいのではないかとも思ったが、ここで今一度冷静に福島の現状から今回のWTOの判断を考えてみたい。

まず、WTOは安全性について見解を示す立場ではないことを踏まえ、しっかりとした判断を行ったと考えている。では何を判断基準としたのかと考えた時、あくまでも私的な推測であるが、東京電力福島第一原発の現状から見た水産物への影響であり、それはズバリ汚染水が最も大きな問題であると考えている。

東京電力は福島第一原発で保管する処理済みの汚染水が100万トンを超えたと発表した。事故から8年がたった今も汚染水は増え続け、東電の計画では敷地内の保管容量は2年以内に限界に達する。時間切れが迫る中、政府や東電はその処分方法についていまだ決定していない。なし崩しで海への排水が始まるのではないかと地元の人々は警戒を強めている。また、この8年間に海への流出事故は複数回発生しており、決して安全の確保ができているとは言えない。

さらに、なぜ保管容量の計画上限を2年以内として発表しているのかを考えると、東京オリンピックが終わるまでは何としても保管しなければならないということだと思うのである。その理由は安倍首相が東京オリンピック誘致の際、海外メディアからの汚染水に関する質問に対して、「汚染水は完全にシールドされているから絶対に安全である」と明言したことであり、日本政府はこの不実の言葉を形式的にも守らなければならないということである。さらにお世辞にも適材適所とは言えない失言のデパートともいえるような桜田議員をオリンピック担当大臣に任命するくらい無責任な安倍政権に対して私は大きな不安を感じずにはおれない。

オリンピックという大きな祭りが終わった後に表面化してくる様々な問題を考えると、かなり強固な心構えが我々国民にも必要になると思うのである。約40年前になるが私自身ある原発の排水路近くで冬でも夏の魚のキスが釣れるということで釣りに行った。驚いたことに12匹釣った内の2匹の背骨が曲がっていた。原発との因果関係を証明することはできないが、何かが起こっているという恐ろしさを感じずにはおれなかった。この表現は風評被害を招きかねないとの、お叱りの声が聞こえてきそうだが、「人間も地球環境の一部である」という私の持論からすると、事実を隠蔽することはしたくない。

話を戻して、改めてWTOの判断を地球的視野に立って考えてみると、この判断を真摯に受け止めることが重要であり、安易に否定したり非難することは出来ないと思う。現鈴木大臣は「オリンピックの成功が復興の後押しになる」とコメントしたが、順序が逆で「復興オリンピック」という名に恥じない真の復興を目指すべきが最優先であると考えるが、皆さんはどうお考えになるだろうか。

(日本褥瘡学会・日本睡眠学会等会員、聖母の小さな学校・連携懇話会委員)
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2019年3月22日金曜日

商人である前に人間として必要なこと

日々商いをするにあたり、私が常に心にとどめている教えがある。それは常軌を逸した価格で物が売買された戦後の復興期に商道徳の大切さを全国行脚して伝え続けた「商業界」主幹の倉本長治が示した商売十訓である。私自身、商業界を通じ倉本長治の長男の倉本初夫二代目主幹には約30年間お世話になった。今回はこの教えについて私なりの解釈でお伝えしたい。その教えの基本となるのが「店は客のためにある」という言葉である。この意味は、店(会社)は経営者のものではなく、また儲けるためだけの場所でもない。店はお客さんに喜んでいただくという役割を実践する場であり、その喜びを自分自身の喜びとして受け止め、幸せな商人という人生を歩む真の目的が店にあるということだと解釈している。
「商売十訓」
一、 損得より先きに善悪を考えよう
  • 目先の売り上げや儲けを優先的に考えるのではなく、人として正しい行為なのかを判断の基本とすることが大切であるということ。詩人である相田みつをも「損か得か、人間の物差し。嘘かまことか、神様の物差し」と言っている。金儲けがどんなに上手くても商売人として幸せな人生が歩めるということではない。
二、 創意を尊びつつ良い事は真似ろ
  • 単なる人の物まねではなく創造者の目指した目的を理解し、尊敬の念をもって真似ることが大切であるということ。弘法大師も「先人の跡を求めず、求めたるところを求めよ」という言葉を残している。
三、 お客に有利な商いを毎日続けよ
  • 商品の価格もサービスも全てにおいてお客さんに喜んでいただくということを最優先に考えようということ。
四、 愛と真実で適正利潤を確保せよ
  • 商品の価格や儲けを決めるにあたり、お客さんを大切にするという純粋な愛の尺度を基本とし、儲けすぎないよう、損しないようバランスを保ち、「足るを知る」という謙虚さと感謝の気持ちを忘れてはならないということ。
五、 欠損は社会の為にも不善と悟れ
  • 商売をしていて赤字を出すようでは納税の義務が果たせていないということになる。そして赤字では商売が継続できなくなり、結果的にお客さんに迷惑を掛けるということになるということ。
六、 お互いに知恵と力を合せて働け
  • 自分の店だけを考えるのではなく業界の発展という広い視野を持って、様々な人との交流を進める中でより良い商品やサービスを創り出すことが大切ということ。
七、 店の発展を社会の幸福と信ぜよ
  • 愛と真実をもって商いをしているならば、迷いなく自分自身の店の発展は社会貢献に直接つながっている、という自信を持って商いを行ことが大切であるということ。
八、 公正で公平な社会的活動を行え
  • 誰に対しても差別をすることなく常に感謝の気持ちを大切にし、孔子が人生で一番大切なこととして示した「恕」という思いやりの心でお客さんに接することが大切ということ。
九、 文化のために経営を合理化せよ
  • 日々の経営に於いてより良い方法を導き出すことができれば、自ずとお客さんの生活様式にも変化をもたらすことになり、そこに新しい文化が育まれる。商売人は文化の創造者にもなれる尊い仕事であるということ。
十、 正しく生きる商人に誇りを持て
  • 自分の生き様が商人である前に人として正しく生きているという自負があるなら、その生き方に誇りを持つべきであるということ。
私はこれからもこの教えを礎として商人としての人生を歩み続けたいと思う。



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2019年2月22日金曜日

心とは?信じるとは?恋とは?愛とは?

私たちは心のあり方次第で一つの出来事をプラスにもマイナスにも理解することができます。表現を変えると何事もポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかという心のあり方によって、人生を幸せなものにするか否かということに繋がると思うのです。
では心はどの場所にあるのか?と皆さんも考えたことがあると思います。例えば心が痛む・心あたたまる、よく似た表現で胸が痛む・胸が熱くなるという表現を考えると心は胸にあると考えていいのではないかと思うのです。物事の理解は頭(脳)で行うとしても、心が頭にあるとは思えません。
ここで心のあり方について考えてみますと心豊かな人というのは愛に満ちた人と同じ意味として理解できると思います。テレビのCMのフレーズに「信じられる愛はあるんか?」というのがありますが信じられる愛とはどういうことなのか?信じるとは何か?を考えてみますと人や物に対して、ある部分やある事柄について予測し、待つこと(期待)であり、期待通りの結果が出た時には、こうなると信じていた、信じていて良かった、という答えになり、期待したより悪い結果が出た時は信じていたのに・・・残念!とか裏切られた、という表現をします。要するに信じるということは「自分の価値観で勝手に相手に期待をして自分の予測や欲求を満たそうとすること」なのではないかと思うのです。
「信じる」という言葉を使った時点で、全てではなく、信じている部分と信じていない部分があるということになり、全てを受け入れるということではないということを意味していると思うのです。
では愛とは何か?それは対象となるものを全てそのまま、ありのままを受け入れたうえでの対応行為のことであり、その行為に対し、見返りといった欲が存在しない心の状態と言えるのではないでしょうか。
ここで知っているようで知らない「愛と恋」についてどこが違うのかと考えてみますと、まず心の場所が違っています。恋という字は心が下にあり、我欲を満たしたいという思いである下心が存在した状態であると思うのです。例えば、人を好きになるとほとんどの場合、その相手にも自分のことを好きになって欲しいという見返りを求める下心といえる欲求が同居しています。私はあなたのことが好きです、でも貴方が私のことを好きかどうかは問いません、という心の状態は恋よりも愛に近い状態だと思うのです。
愛は下心ではなく心が文字の中心にあります。同じく心が中心にある文字として慶(個人的なよろこびではなく公なよろこび)、憂(亡くなった人を偲び悲しんでいる人の様子であり、その人に寄り添う状態が優しい)があり、どれも個人の欲に関わる下心的な意味を含んでいません。
歴史から愛を考えると弘法大師が仏教とともに伝えた愛染明王というのが日本に愛という文字が定着した始まりともいわれています。さらに1549年フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた時にはLOVEを「ご大切」と表現し、そののち明治になってから愛と訳したと言われています。単に大切というのではなく「ご大切」と表現することによって当時の日本人の人や物を純粋に大切にする心を理解した、まさに愛の本質を表現するのに相応しい言葉だと思うのです。私はあなたを愛しています、というその真意は「私はあなたをご大切に思い、接してまいります」ということになります。
私自身「ご大切」という言葉に出会えたことで、愛について少し理解を進めることができたように思うのです。
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2019年1月18日金曜日

抱負と夢

皆様におかれましては心新たに良い年を迎えられたことと思います。

新年を迎えて今年の抱負をつくったり、夢を描いたり、未来に向けて様々な取り組みがなされるのがお正月です。今回は抱負と夢についてお伝えしたいと思います。

まず抱負とは具体的な実行計画と考えます。例えば高校野球で甲子園に出たいというのは抱負ではなく目標であり夢に値するものであり、その実現のために「毎日素振りを千回行う」というのが抱負ということになると思うのです。目標や夢の達成のための具体的な日々の実行計画が抱負ですからコツコツと積み上げていくものでなければならないということになります。

ここで、抱負というと前向きでプラス発想的なイメージがあるにもかかわらず、なぜ「負(まける)」という字が付いているのかということを疑問に思い調べてみると、負けるではなく「背負う」という意味だということのようです。だから、抱負というのは前に抱いて背中に背負うということになり、全身で実践するということになります。

次に夢ということについて考えてみると、目標として捉える夢と睡眠中に見る夢があり、睡眠中に見る夢は目が覚めた時に夢も終わるということから、人の夢と書いて儚い(はかない)と読むのはここに所以があると思うのです。では目標としての夢を考えると夢実現のための具体的な計画を立て、それをコツコツと実践していくしか実現というゴールに到達することができないわけであり、この地道なコツコツとした取り組みが辛くて苦しい場合が多いため、ほとんどの人が途中で挫折し諦めてしまうことからも人の夢は儚いということになったのではないかとも思うのです。それだけに描いた夢を実現することができるように、毎日実現のための様々な具体的な取り組みを実行し続けることが大切なのであり、実行し続けた人にこそ味わうことができる成功という通過点があるのだと思うのです。

ここで世界の著名人が残した夢に関するコメントを調べてみました。

「昨日の夢は今日の希望であり、明日の現実である(ロケット開発の父 ロバート・ゴダート)」

「夢を与えられれば、それを実現する力も必ず与えられる(鴎のジョナサン作家 リチャード・バック)」

「夢を見ることができるということは、その夢を実現できるということだ(ウォルト・ディズニー)」

「夜に夢を見るのではない、私は一日中夢を見ている、生きるために夢を見ている。(映画監督 スティーブン・スピルバーグ)」

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に夢なき者に成功なし。(吉田松陰)」

この様に多くの人が夢の実現について言葉を残しているということは、まさに夢を実現することが如何に難しいかということであり、簡単に夢が実現できるのであれば誰もこのようなコメントは残さないはずです。

最後に成功とは人の役に立つという功績を成すことであり、決して多額のお金を儲けたり有名になることではなく、ささやかであっても「人の価値観ではなく自分らしく」人の役に立って人の心をあたたかくすることができることを夢として描き、それを実現することこそとても尊い成功と思うのです。
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