ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2018年4月24日火曜日

教育と指導

先月号で「道」についてお伝えさせて頂いたが、改めて武道・華道・茶道などの道はすべて道徳ということに繋がり、どの道も多岐にわたる視座に立った愛情の豊かな人間として幸せに生きることだと考えると、その道の歩み方を如何に伝えるかが重要になる。私は伝え方として「教育と指導」の二つの方法があると考えているのだが、教育と指導とはどのように異なるのであろうか。
まず教育とは教育を受ける側の人の視座に立ち、その人が将来的にその個性や特性を生かしながら幸せな人生が送れるように独立自尊の生き方を愛情をもって教え育むことだと思う。そして指導とは一つのゴールを目指し、そこに到達することができるまで導くことだと思うので、指導は教育に包括されるのだと考えている。この違いは抽象的で理解し難そうに思えるが、教育は一言でいうと絶対的な一つの答えが無く、教育を受ける人の数だけの答えがあり、指導は必ず答えが存在するものだと思う。さらに、教育は受ける人が主で指導は受ける人が従であるとも言える。指導において答えというのは規則・ルール・基準といったものであり、これらが無ければどこに向けて導くのかが不明確になる。指導について分かりやすい事例として柔道があり、軽微な違反行為を行うと手をくるくる回すジェスチャーと共に指導がなされる。要するに正々堂々と戦う道を外れた場合にのみ指導が行われるわけで、規則・ルールを外れないように導く行為を指導と言うのだと思う。特に柔道においては指導を「教育的指導」と表現していることから、指導をする時にも必ず教育という広く大きな視野を基本とした上で行われるところに柔道の奥深き魅力が存在するのだと思うのである。
私は経験上、現在の日本の学校教育現場にはマニュアルやノウハウに則った指導者は多く存在しているが教育者が少ないと感じている。正解となる答えを導き出す方法を教えるだけでは指導者であり教育者とは言えない。指導の「導」と言う文字は道の下に「ちょっと」を意味する「寸」と言う字が配してあることからも指で指し示すことのできる一時的な案内を意味しているとも考えられるのではないだろうか。
私たちの住む舞鶴の天台には、梅沢先生ご夫妻が中心となって多くの心ある先生方によって運営されている不登校の子供たちを対象とした「聖母の小さな学校」があり、ここでは答えありきの指導は全く無く、純粋な教育が存在するのみである。ここでの取り組みは日本の中で最も先進的であり、全国の不登校の子供のフリースクールの模範学校となっている。
私は経営者の端くれとして従業員の一人ひとりと接する時、仕事を通じてそれぞれの個性と特性を活かした社会貢献活動が実行でき、従業員一人ひとりに幸せを実感してもらえるよう教育者という視座に立つことを肝に銘じ、決して如何なる場合も単なる指導者とならないよう努力を重ねたいと思うのである。