ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2019年10月25日金曜日

「怒る」と「叱る」

10月15日の「潮騒」の投稿を拝読して、家庭内の道徳教育のしっかりとした素敵なお母さんの優しさに触れた思いがした。それはお母さんとお子さんの会話のやり取りで、お母さんがあくまでも子供を一人の人間として、しっかりと向き合って教育されている様子が目に浮かぶ内容で、小学生の子どもたちの井戸端会議にドクターT(市長)の言動が問題になったことが発端である。子どもとしても市長の言動が市民に誤解を与えたにもかかわらず、謝らないのは間違っているのに、なぜ市長は謝らないのか小学生としては道徳的に考えても理解ができない。大人でも理解できないのだから当然のことであるが、お母さんとしては子どもに説明ができないので、「子どもの手本となる対応として誤解であるなら謝罪をして、子どもが尊敬できる市長でいてください」と結ばれている。

そのお母さんがお子さんの問いかけに「市長の言動に対して怒っている人がいるみたいよ」と説明されている。ここで、私はいつも心がけていることとして「怒る」と「叱る」を分けて考え表現するようにしている。「怒るは感情」「叱るは愛情」と表現されるが、何が違うのかということである。「怒る」の語源は「起こる」であり、起きると同意の立つということと理解すると腹が立つということに繋がる。腹が立つというのは単なる感情表現であるが、叱るは間違いを正し、改善策を共に考え、示すことによって間違いを解決する行為であると考えている。だから「怒る」にはないが「叱る」には愛情があり、教育という概念も存在すると思う。

私は今まで市長に対してこの市民新聞を通じ、ほとんどの市民に誤解を招いたことへの反省と謝罪を求め、対話によって共により良い舞鶴を創るための方策を導き出しましょう!と呼びかけている。だから私の言動は「叱る」という行為であると理解しており、腹を立てて文句を言う「怒る」行為で終わりにしたくないと考えている。教育とは永い時間を要するものであるから根気強く叱り続けることが必要であると思うのである。

ここで異なる視座に立って見ると「怒る」は年齢などの上下関係に関わり無く発する行為であるが「叱る」というのは年上が年下に、先生が生徒に、また上司が部下に対して等、上下関係が存在する中でなされる行為であるとも言われる。NHKの人気番組に「チコちゃんに叱られる」というのがあるが、チコちゃんの質問に対して回答者が間違った答えをすると「ボーっと生きてんじゃねぇよ!」というフレーズの後に必ず理由の説明と共に正しく理解することのできる解決策が示されていて、まさに「叱られる」ということになるのである。チコちゃんは永遠に5歳だが物知りな先生の立場であり、回答者や視聴者はチコちゃんより年上であるが生徒の立場となるのでより素直に叱られやすくなる構図ができていると思う。すると市長を叱っている一市民の私が市長の上なのかということになる。ここで行政運営の組織図を考えてみると皆さんは図Aを思い浮かべられることと思う。しかし私の会社は図Bの考え方で業務を進めている。本来、行政機関というのは究極のサービス業であると称されることからもお客様である市民が主人公であり、組織図では一番上でなければならないと思うのである。同じ様な事例として医療の現場においても主人公は患者であり医師ではない、患者がいなければ医師の存在は必要ないのである。

社長や市長も組織図では最も下に存在して、関わる人たちを支えるという心構えが大切であると考えている。だから私はお客様や従業員から叱られることがある。

図Bの視座に立つと、真実を正しく見つめ、それを表現する勇気のある「潮騒」のお母さんのように市長を叱って頂く市民の存在は、道徳的的にも行政運営の組織図的に考えても正しいことであると思うのである。あとは叱られる方にそれを受け止める素直さと勇気があるかが問われるということになると思うが如何であろうか。