ジェルトロン開発者・田中啓介のブログです。

2018年8月24日金曜日

知覧の特攻から学ぶ 戦争の愚かさ

8月は広島・長崎が被爆し、そして終戦となったことから戦争についてしっかりと考える月であると思う。私は毎年8月になると鹿児島県の知覧で体験したことを思い出す。そこには知覧特攻平和会館があり、そのすぐ近くに富屋食堂がある。この食堂を経営していたのが鳥濱トメさんという、特攻隊員にとってお母さん的な存在であった。この食堂は軍の指定食堂にもなっていたので知覧から出撃した殆どの隊員がここを訪れている。

昭和20年6月5日、明朝に出撃することになった宮川三郎軍曹(のち少尉)が富屋食堂で二十歳の誕生日祝ってもらっていた。そして彼は「俺は明日、この時間にホタルになって帰ってくるので帰ってきたら同期の桜を歌ってくれよ」と言い残して飛び立った。そして翌日トメさんと娘と出撃前の隊員たちが食堂にいた時、扉の隙間から一匹のホタルが舞い込んできた。娘さんが「宮川軍曹が帰って来られました‼」と叫び、全員で涙を流しながら同期の桜を歌った。それからホタル館富屋食堂と呼ばれるようになった。

もう一人私が忘れることが出来ない特攻隊員として藤井一中尉(のち少佐)がいる。彼は熊谷陸軍飛行学校で「精神訓話」の教官をしていた。当時、精神訓話といえば、軍人精神を叩き込む大切な教科であり、そんな彼は「事あらば敵陣に、敵艦に自爆せよ。俺もかならず行く」と口癖のように言っていた。(多くの他の教官も同じことを言っていたが実行した者はほとんどいなかったとのことである)

そして自分の教えを守り、教え子のほとんどが戦死していく状況にいたたまれず、彼は軍本部に「自分も出撃させてくれ」と申し出る。しかし彼はシナ事変で腕を負傷しており、飛行機の操縦は難しい状態であったことに加え、妻子があり、有能な教官であるため出撃させることを軍本部は認めなかった。しかしながら藤井中尉は何度も何度も出撃申請をした。そのことを知った妻ふく子は思い止まるよう藤井に懇願したが夫の考えが変わらないことを悟ったのである。そして藤井が週番司令として一週間宿泊勤務するため家を留守にした1944年12月14日、ふく子(24歳)は二人の子供に晴れ着を着せ荒川に身を投じたのである。翌朝、次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をしっかりとひもで結んだ3人のお雛さんのような遺体が発見された。自宅で藤井が見つけたふく子の遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、存分の活躍ができないことでしょう。お先に行って待ってます」と書かれていた。

この後、軍本部は藤井中尉の要望を聞き入れ出撃を認めた。出撃近い日に藤井も富屋食堂にて食事をしたとのことである。そして長女の一子ちゃんに宛てて遺書を残している。

『冷え十二月の風の吹き飛ぶ日、荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。』

1945年5月28日、腕に障害があり操縦ができない藤井一中尉は教え子の小川彰少尉の操縦機に通信員として搭乗し、アメリカ駆逐艦ドレクスラーに命中し特攻死(29歳)したのである。

ある記録によると、特攻作戦を発令したといわれる海軍中将・大西瀧治郎は自ら特攻を「外道(げどう)の戦法」といい、ここまでやったら天皇陛下が「もう戦争を止めよう」と言うだろうと期待していた。しかし、その願いは届かず、天皇は「体当たり機はよくやってくれた」と答えたことによって特攻作戦は続行された。さらに、特攻隊員第一号として指名された(志願ではない)関行男大尉は「僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだ。天皇陛下のためとか日本帝国のためではなく妻を護るために行く。最愛の者のために死ぬ」と言い残して出撃した。しかし関大尉が特攻出撃した翌日、新聞は「神風・関大尉!日本を守る」と報じたのである。真実を伝えることが難しい状況であったとはいえ新聞社の何と愚かな行為であろうか。現在の日本においても金銭尺度を重視する人々によってこれに類する行為がなされないようにしなければならないと思う。

人として生きることの目的を考えた時、それはすべての人々がそれぞれ幸せに生きることであると思う。万人一人ひとりの様々な視座で、そして様々な視点で見ても戦争という行為は真の幸せには通じないと思う。宮川軍曹と藤井中尉の人生を自分自身に置き換えてみることで戦争の愚かさをしっかりと肝に銘じたいと思うのである。